もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

月光スコープ Ⅱ Mondenkind/或いはSiO2 mohs7

Mondenkind/或いはSiO2 mohs7

 

満月の夜にだけ、現れる夜店がある。

星のない真っ暗な天幕のような空で、地上をじっと見下す巨大な満月の夜。 

あまりにも大きくて、あまりにも眩しいから、月面に刻まれた模様までくっきりと見える。

そこに刻まれているのは、この世界の原始の理だと語るものもいる。遠い昔、その模様の意味を読み解いた賢者は、地上人の叡智を越えた真理を知ったことで気が触れて、自らの眼球を抉って死んだとか。その眼球は人として生きた間に見たものの色も、映した光も、翳りも、流した涙もすべてが失われて。無色透明の水晶に変化した。

それを拾った硝子職人が表面を削り、磨き、加工してワイヤーに吊るした。すると賢者の眼球だった水晶は月明かりをひろい、宵闇の中でプリズムを放ったそうだ。

人ではなく鉱物となった賢者は、月の光を取り込み、自らも月の真理の一部となった。それを憐れむ人もいれば、羨む人もいる。

 

満月の夜にだけ現れる夜店が扱うムーンキャッチャーが、その昔話と関係しているのかどうかは分からない。

銀色の光に照らされた森は、夜だと思えないほど眩しい。けれど冴え冴えとした鋭さは、太陽とは正反対の性質の光で、宵闇に隠されたすべてを見通そうとしているかのような圧を持つ。普段は我が物顔で翼を翻し、爪を尖らせる夜の眷属の禽獸たちでさえその圧力に屈したように沈黙している。

夜気を纏った森の空気はどことなくじっとりとしていて、一人森を行く娘の裸足の足に纏わりつく。

娘が踏みつけた病葉の下から、ぬるりと白い蛇が這い出して、月面模様にも似た鱗を銀の光に濡らしながら、またゆっくりと土の中に潜っていった。

あまりにも静かすぎて、娘の呼吸音が娘の鼓膜の中で反響しだす頃、唐突にその夜店が姿を現した。

 

 

森の木々と同じ色の板で組まれた屋台には、銀色がかった羊歯の葉が絡みついている。

陳列されているムーンキャッチャーたちが巨大な満月の光をひろって、せわしなく瞬く。

プリズムの輝きに反射して、店主の顔はよく見えない。しめった夜風がふくと、水晶たちがぶつかり合って揺れる。硬い水晶同士が摩擦しているのに、聴こえてくるのはなぜかさやさやとした衣擦れにも似た音。よくよく耳を澄ませると、それはささやき声だと気付く。その言葉たちは、娘には理解できない古の言語だ。

 

 

「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」

店主の声は、独特だった。老いたひとのような重みと、子どものような湿り気、男のような深みと、女のような柔らかさを含んでいる。相変わらず、プリズムが眩しくて店主の姿はよく見えない。

娘は声のする方へ向かって話しかけた。

「買いに来たのではありません。ムーンキャッチャーをつくってほしくて来ました 」

娘の声は尊大な響きを持っているが、それでも微かに震えていた。怯え、畏れ、憤りの混ざった声。

「水晶をお持ちで?」

「ええ、あります」

プリズムの向こうから、ぬっと大きな手のひらが伸びてくる。手のひらはぬばたまの革手袋に覆われていて、やはり店主の性別も年齢も推し量ることはできない。

娘はその革手袋の上に、ちいさな水晶を二つそっと置いた。

 

「これは珍しい。犠牲の双児スケープゴートの水晶ですね。こんなに純度が高いものは初めて見ました。どこでこれを…いや、愚問ですね」

「わたしの双子の妹のものです」

「旅商人をしていると、様々な噂が耳に入ります。そういえば、この近くの村の犠牲の双児のひとりが、月にあてられて発狂したとか。塔の天辺に幽閉された身には近すぎる月は毒だったのでしょうか。或いは、かつての賢者のように月面模様の意味を読み解いてしまったのかもしれませんね。だから自ら眼球を抉った」

「だとしたら、どうしてあの子だったの。選ばれたのはわたしだった。両親にも、村長にも、選ばれたのはわたしだった。わたしはあの子よりも優れていて、わたしはすべてを与えられて、あの子はわたしのために犠牲の双児として幽閉されたのに。なぜ月はあんな子を選んだの。許せない、…あの子がわたしより多くのものを知ることは許されないはずなのに」

「なるほど。そして妹君をムーンキャッチャーにしてどうなさるおつもりで?」

「月の真理の一部になったあの子を、真っ暗闇に閉じ込めるのよ。月の光をひろって輝くのが真理だというのなら、それを奪ってあげる。あの子は結晶になったって幽閉されるべき存在と決まってるのだから」

 

娘の声は語りながら、興奮に上擦っていく。瑠璃色の瞳の奥の瞳孔が、月光とプリズムの中で燃えるように大きくなった。

『満月の夜に生まれた双子は凶兆。一人を月への贄として選び、生涯幽閉せねば、その土地は荒れ果てやがて朽ちるだろう』

この近くの村で、古くから伝わる言い伝えだった。

娘は妹と共に満月の夜に産み落とされ、妹のほうが贄としてして選ばれた。純真な心を持つ妹は、抵抗することもなく自らの運命を受け入れ、日にニ度の食事を運ぶ下女が訪れるだけの狭い塔のてっぺんで静かに生きていた。

けれど、二人が齢十五になる満月の日、塔からこの世のものとは思えぬ鋭い叫び声が夜の村に響き渡った。駆けつけた下女が見たのは、自らの眼球を抉り出して事切れた犠牲の双児スケープゴート。彼女の痩せた足首の横に、透明な水晶が二つ、銀色の光をうけてプリズムを放っていた。

 

 

「よいでしょう」

店主の声に、娘はいからせた肩を僅かに下げた。プリズムの向こうで店主の唇が弧を描くのを、娘は気付かない。

「ああ良かった。森の奥まで来た甲斐があったわ」

「お代について、お話しましょう」

「ええ、ええ。いくらでも支払うわ」

「金はいただきません。ムーンキャッチャーはこの世界の成り立ちとは違う次元に存在するものですから」

「では、なにを」

「妹君の水晶のうちのひとつ。それからあなたさまの眼球をひとつ」

店主の言葉に、娘はたじろいだ。だが、ぬばたまの革手袋に置かれた妹が、そんな娘を笑うようにますます月明かりをひろって眩いプリズムを放つと、意を決したように自らの眼窩に細い指を差し込んだ。

なまあたたかな眼球を渡された店主の革手袋はプリズムの向こうに素早く消える。

プリズムと月光と鮮血でぼやける視界の中で娘は待った。半刻ほど経つと、プリズムの向こうから再び革手袋が伸びてくる。

妹だった水晶は八面体に加工され、ワイヤーに吊るされている。月光をひろって、すみとおった光を放つそれを、娘は奪うように手にとって、月明かりを通さない分厚い布で包んだ。

眼窩の痛みも忘れたかのように軽やかな足取りで森を去る娘の背中を、店主はじっと見つめていた。

娘にムーンキャッチャーを差し出したのとは反対の革手袋の中で、なまあたたかかった眼球が無色透明の水晶へと変化していることを、彼女は知らない。

 

「満月の夜に生まれた双子は、どちらかの犠牲によって互いの運命を分かち合う。妹はあなたのために犠牲をはらい、あなたはいま、妹のために犠牲をはらった。真意なんて関係ありません。犠牲という事実が大切であり、すべてなのですよ」

 

独りごちる店主の足元に、いつの間にか土から這い出た白い蛇がそろそろとすり寄る。蛇が鋭い声をあげたのと、夜店が跡形もなく消えたのは、同時だった。

 

 

その満月の夜から、半年後ほどの満月の夜。

森の傍の村で、一人の片目娘が死んだ。月に向かっておぞましい叫び声をあげ、家族が駆けつけると月光をひろってプリズムを放つムーンキャッチャーで首を吊り、事切れていた。

彼女の足元に落ちている水晶に、狂騒した家族たちは気付かない。騒ぎの中でいつの間にか入り込んだ白い蛇が、水晶を咥えてそろりと消える。残されたのは空の眼窩の娘の亡骸だけ。

 

 

「良い子だね」

森の奥深く、足元に擦り寄る白蛇が吐き出した水晶を手に取ると、店主は蛇の頭を撫でて瞳を細めた。

革手袋には水晶が二つ。半月前に愚かな娘が持ち込んだ片割れの水晶、それからこの月夜に事切れた娘の水晶。

片割れと運命を分かち合う娘は、彼女の知り得ぬところで月の真理の一部となった。すべての理を無意識下で知ってしまった娘の神経は、この世界の、そして自らの浅ましさに耐えられず正気を手放した。彼女の歪み、濁った心が映したものはすべて濾過されたように、水晶はすみとおった透明をしている。

店主はその二つの水晶の表面を丁寧に削り、磨き、八面体に加工してワイヤーに通す。

満月のひかりをひろって、眩いプリズムを放つ双児のムーンキャッチャーは夜風に揺られて声をあげる。さわさわと、ささやくような声が語る言葉を、店主は知らない。

唯一、その古の言葉を理解できる月だけが悠久の沈黙と共に耳を傾ける。

 

 

 

 

 

 

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