もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

月光スコープ Ⅲ終末の実り/或いはSiO2 mohs7

終末の実り/或いはSiO2 mohs7

 

少年の家は海の傍にある。

海はこの小さな村の全ての営みの源だった。

透明な海水は飲水になり、泳ぐ魚たちは村人の食料になり、網にかかる貝が抱きしめる真珠はこの村の特産品として経済を支えた。

硝子のようにすみとおった海は、美しかった。あまりにも澄んでいるので、満月の夜には巨大な月が二つ存在するようだった。

 

村に住む老いたひとたちのなかには、古い言い伝えを信じるものがいる。

この村には月が二つ存在する。一つは空から照らす月。一つは海底に沈む月。

むかし、海面の美しさに魅せられた月が海へと身投げした。すぐに天のいと高きひとたちによって新たな月が創られたが、海に沈んだ月は今もまだ生きている。

海底に住まう鱗あるものたちに歓迎され、施しを受けた。彼らのきよらかさに感激した月が礼として海底の奥深くから海に祝福を与えているから、この海は恵み多いものなのだという昔話を。

幼い少年は祖父が語るその話に惹きつけられた。月の祝福についてではなく、鱗あるものたちに、強く惹きつけられた。

生まれつき足を病んでいる少年は、友人たちのように海に入って遊ぶことができなかった。

硝子のようにすみとおったこの美しい海を悠々と揺蕩い、空から、そして海上から差す二つの月明かりに鱗を透かし見るのはどんな心地がするのだろう。白いベッドでただ海を眺めて過ごすだけの少年は、鱗を持つ夢に耽り、目覚めては落胆した。

 

 

月が眩しい。

そう思って、少年は目覚めた。

満月の夜だった。

少年の部屋の窓辺に伸びた枝にずっしりと下がる葡萄の実の、艶々としたその表皮にひびが入り、紫水晶へと変化する。毎年、葡萄が紫水晶に変わるこの時期は、月が一年の中で一番大きくなる。

空にも、海にも、巨大な眼球に似た満月が爛々と耀く。耳を澄ませば銀色を映した海の底に住まうものたちの泡がはぜるような声ならぬ声が聞こえてきそうな、あやうくひそやかな静寂に満たされる季節。

 

少年はこわばった裸足を木の床に降ろし、枕元の窓を開けた。つめたい銀色の光が、少年の部屋にすばやく入り込んでくる。少年の顔のすぐ横の枝をしならせてなっている紫水晶が、銀色の光を浴びてふるりと揺れる。その硬質な見た目に反して、熟した葡萄の甘く、それでいてすがすがしい香りを漂わせた。

少年は唐突に、喉の乾きを覚えた。つめたく、甘いなにかで、喉を潤したくてたまらない。ふと紫水晶に視線をやり、慌てて首を振る。

紫水晶に変化した葡萄を、人の子が呑むことは禁じられている。それは月の祝福をうけた聖なるもので、海への貢物。海の恵みによって生かされている人の子が呑むことは決して許されない。この村に住むものが幼い頃から言い聞かされる掟だ。無論少年はこれまで呑んだことはもちろん、呑みたいと思ったことさえない。

けれど、激しい乾きを訴える喉はこの鉱物を欲している。手を伸ばせば届くところにある、美しい紫。銀の光を浴びて、夜露に濡れたそれは抗いがたい芳香をはなつ。

 

少年は勢い良く窓を閉めて、ベッドへ駆け込んだ。病んだ足が痛むのも気にせずに。

月の光が絶たれ、紫の香りが消えると、喉の乾きはおさまっていった。

少年は怯えていた。自分の意識とは別のところから生まれた強い欲求に。禁忌を犯すことへの甘い震えに。

薄手の毛布を頭から被り、身の内から生まれたもののはずなのに己の制御に屈しないそれを振り切るように枕に顔を埋めた。

深呼吸を繰り返し、足の痛みがゆっくりと引いていくころ、再び眠りにおちる。

 

 

 

月が眩しい。

そう思って、少年は目覚めた。

目を開けると、口から吐いた息が水泡になって少年の視界をゆっくりと横切っていく。銀の月光がゆらゆらと揺れている。ほのかに甘いような、磯のにおい。少年は、海の中にいた。

つめたい筈の水は、着心地の良いガウンのようにしっとりと肌にまとわりつき、月光と海水に照らした手のひらは透けそうなほど白い。

その手のひらを、誰かがそっと掴む。鱗を持つ、うつくしい少年だった。色とりどりの鱗。硝子のようにすみとおった白い肌。鱗をあるものたちはひとり、ふたりと増えていき、少年を誘うようにより海底へと進んでいく。眩しい月光は、空からのものではなく海底から射しているものだった。

彼らは彼らの言葉で歌いながら、少年を歓迎しているように見えた。いつもは重く鈍い病んだ足は、海中では嘘のように軽く水を蹴る。

 

やがて海底の月の光源に近づく。そのときふと、彼の手を引いていた鱗あるものたちが動きを止めた。

光源は眩しく、あたたかく、そして少年を誘うように魅力的な甘くすがすがしいかおりがする。

喉の奥がちりちりと焦れる。その光の真髄に早く触れたくて、先へ進もうとする少年を制して鱗持つものたちは首を横に振った。

少年は腹が立った。ここまで連れて来たというのに。もう少しなのに。どうして。彼らを払って先へ進もうとする少年に、鱗あるものの一人が手を伸ばす。

少年の頬を両手で包み、彼は口を開けた。少年の視界いっぱいに、ほの暗い口腔内が広がる。粘液と襞の向こうに、なにかがひかっている。

月光と海水をひと匙ずつ含んだように濡れた紫。うっとりと甘いにおいのするクラスター状の紫水晶が、彼の喉の奥でみずみずしく鎮座していた。

その甘いにおいに、少年は喉がひどく乾いていることに気付いた。

 

 

 

 

月が眩しい。

そう思って、少年は目覚めた。

閉めた筈の窓が開いていて、ちょうど少年の顔の位置に巨大な満月の月明かりが差し込んでいる。

つめたい床に裸足を降ろして、少年は窓辺へ近づく。病んだ足はしっとりとした水滴で濡れている。

手を伸ばし、銀の光を浴びて、夜露に濡れて芳香をはなつ紫水晶の一房を枝から捻りとった。

躊躇いもせずに、口に含む。うっとりするほど甘くて、みずみずしいにおいが身体中に広がる。喉をすべり降りていく水晶はつめたく、すべらかだった。やがて少年の病んだ足が光をはなち、しろい表皮にぷつり、ぷつりと鱗が浮かび始める。

泡沫が浮かんで弾けるように、ぷつ、ぷつと生まれていく鱗。月光と海水を含んだ紫水晶の色の鱗。

二本足の原型がなくなったそれの、ふくらはぎだったところくらいまで鱗が生まれたとき。その動きがゆうるりと止まった。

鱗と鱗の隙間に、亀裂がうまれる。それはものすごい速さで広がっていき、少年の足だったものはまるで叩かれた鏡面のように今にも崩れ落ちそうだった。

月が眩しい。

床の上に倒れた少年の身体を、銀色の月明かりが照らしている。あまりにの眩しさに瞼を閉じようとしたけれど、少年の角膜を突き破って出てきたクラスター状の紫水晶があるせいで叶わなかった。

鋭い音と共に鱗だったものが弾けて粉々の紫水晶となって銀色の光の中を舞うのを、少年の瞳はもう映していない。

 

 

 

「どうも、不作続きですね」

粉々に砕けた紫水晶の欠片を革の爪先で払いながら、銀縁眼鏡に三白眼の男はつぶやいた。

仮の二本足はしなやかだけれど、靴というものだけは窮屈で仕方ないと思いながら、じゃりじゃりと紫の石粉を踏みつける。

蛍石の彼らがビオトープを逃亡してから、どうも海底の月と天の月のバランスがおかしい」

「けれど先生、そもそも人の子を変化させようとしているからでは」

銀縁眼鏡の男の横で月を見上げながら問いかけるひとの声は、男のような女のような、老いたひとのような、稚いひとのような不可思議な響きを持っていた。

「仕方ないでしょう。月の好む純潔の海のものは年々減っていってるのです。散々捧げてきたというのに、餓えた怪物はいつだって口を開けて贄を待ち、差し出さなければその深淵の喉にすべてを呑み込む」

「おそろしいことです」

「我々に憧憬を抱く人の子なら、拒絶反応を起こさず変化できるはずなのですが。ここのところ、二つの月のバランスが乱れています。本来均等であるはずなのに、海底の月の力のほうが大きくなっている。可哀想なこの子は、月の強すぎる力に負けたのでしょう」

「新たな純潔を差し出す前に、さらに海底の月が巨大化する可能性もありそうですね。そうなれば、」

「そうなれば、光の収支が合わなくなり、地にも海にも大きな影響が出るでしょう。陸と海の境界が変わり、陸のものと海のものの関係が変わる。そしてこの世界の均衡さえも、崩れる」

「我々は随分繊細な世界に産み落とされたわけですね」

「たとえこの世界が朽ちるときも、月だけは変わらず光を放ち続けるでしょう。その光を見上げるものがすべて失われても、虚ろの空に灯る光であることが月の存在する理由ですから」

 

銀縁眼鏡に三白眼の男は、クラスター状の紫水晶を床から拾い上げる。細い指に力を込めて、ぱきりと二つに割ると、一つを傍らのひとに差し出す。

 

「結構です。私は陸の暮らしが気に入っているので」

「強情なひとだ」

 

銀縁眼鏡に三白眼の男は呆れたような笑みを浮かべると二つに割った紫水晶をまとめて口に含んだ。そして、窓から見渡す海に向かって飛び込んだ。男を呑み込んだ海は、何ごともなかったように硝子のようにすみとおった水面を月明かりにさらして、ひっそりと沈黙する。

 

「おいで、私たちも帰ろう」

するりと足元に擦り寄る白蛇に声を掛け、残されたひとは水晶の欠片をひとつ拾った。完璧な紫に染まる前に弾けたそれは、ほんのうっすらと紫がかった透明な水晶だった。

 

「新しいムーンキャッチャーをつくろう。僅かな紫のヴェールが、きっと月明かりに映えるよ」

 

じゃりじゃりと踏みつけられた紫水晶の欠片が銀色の月光を反射する。熟した葡萄の甘く、みずみずしいかおりが、夜の底で揺蕩いつづける。

 

 

 

 

 

 

 

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