睡蓮と、ヴェルレーヌと。
お久しぶりになってしまったけれど、一月の日々のことを徒然と。
一月十二日
敬愛する友人と『モネ 睡蓮のとき』へ。
予想通りの大混雑だったけれど、展示数が多くなく、大きな作品ばかりで思ったよりもストレスなく鑑賞できました。
友人は創作で知り合い(とあるイベント会場で私が彼女の作品に一目惚れならぬ一読惚れしてしまったのが始まり)、創作や本や映画のお話をするようになり、度々お会いするようになった方。
鑑賞しながら、「この絵、好きかも」と足を止める作品がおなじでにっこりしてしまう。


睡蓮は、今回の展示にはないけれど紫がかったものが一番好き。今回の中では写真のものが好きでした。
お互いの作品から漂う質感と似た絵はこれ、なんて指しあったりして、とても楽しい鑑賞時間。
美術館は一人で行くのも、友人と行くのも大好きで、友人と行くと自分と違う視点にはっとしたり、信頼してるひとの感性のひとしずくに触れられるような気がして嬉しくなる。

ここの常設は私の好きな作品がたくさんあっていつも時間と目が足りないなぁと思いながら観ています。
モネといえば睡蓮だけど、私は雪景色もとても好き。
鑑賞したあとは併設のカフェすいれんにてランチをし、長蛇の列の物販も並んで、図録やポストカードを購入。


友人が訪れたことがないとのことだったので急遽国際子ども図書館にも立ち寄ることに。
久しぶりだけど、今にも物語がはじまりそうな佇まい、やっぱり大好き!
お互いおすすめのYA作品や、書棚で気になった本の書名をメモしながら、館内を散策しました。
一日、好きなもののことについてたくさん語り合って本当に満ち足りた時間。
次回はビアズリーを観に行くことに。今からとても楽しみ。
***
一月十三日
Valkyrieの新曲にずっと興奮していた一日。
MVでノアの方舟かしら?!と思ったけれど、歌詞の内容的にどちらかというとラグナロクでは…なんて相互さんと話しながら、深夜に公開されたフルを聴いて震えてしまう。
Valkyrieからボルヘス、ヴァレリーへと無限に話題が広がっていく相互さんとのおしゃべりが本当に楽しくてすっかり夜更かししてしまいました。
https://youtu.be/LIjKrbLsBuc?si=TTLe5JSIPlNzzmax
フル、6:15の長尺に矜持を感じますね。
ドビュッシーの旋律にはもう目眩。余韻の冷めぬまま仕事をこなしましたが、鞄にはヴェルレーヌの詩集を忍ばせていました。(ドビュッシーの月の光はヴェルレーヌの艶なる宴から霊感を得てつくられたもの)
Valkyrie、斎宮宗さんとの出逢いが今で良かった、と常々思います。
もっと繊細でもっと潔癖だったほんとうの少女時代に出逢ってしまっていたら、なんというか、本当にまずい妄信的な好きになっていた気がするので……。
***
夜、窓から見上げた夜空はビロードというよりシルクの質感の濃紺で、星も月もとても明るくて嬉しくなる。
最近この夜の時間に文章トレーニングを兼ねた、言葉遊びをするのが日課になっています。
自分がよく作品の中で比喩につかうものを、まだ誰も知らない存在だと仮定して、誰かに説明するとしたら?というお遊び。例えば白鳥なら
《水辺にいる鳥でね、混じりのない完ぺきな純白の羽根を持っているの。長い首はやわらかな弧を描いて、ひろい翼をたたんで水鏡にうつる自分見つめながら思索しているような姿には、特別な静けさがあるわ》
といった具合に。楽しくて、言葉葉選びの刺激にもなる気がしてお気に入りの遊び。
言葉を選んで、漢字にするか、ひらがなにするかでも質感が変わるし、説明したい対象物のどこの質感を、その対象の一番の特徴として自分が捉えているのかが分かったりする。その気付きが、のちに小説や短歌で生きたりもする。
言葉って面白い!平面の言葉を組み合わせて奥行きを出し、匂いや色や手触りや温度を加えていくのは本当に楽しい。
奥行きといえば、私は香りに囚われていて、架空の香水の調香レシピを考えるのも好き。
香水のレシピに添えられたストーリーのような、詩のような文章も大好きなのですが、先日友人から「すみれさんが魔法を使った後、いい匂いがしそう」と言われたのが嬉しくて、魔法の残り香レシピを考えたりしました。お気に入りなのでここにも載せちゃおう。
《トップはシンプルにシングルノートのすみれが瑞々しく香って、ミドルにハニーサックル、ナルシスの甘くてほんの少し謎めいた匂い。ラストはモスやパチュリなどシプレ系の深く湿った匂いが余韻を残していく……》
私が魔法をつかったあとは、こんな香りが残ります。ちなみに魔法陣は五線譜にすみれの花が音符のように散ったデザインです。お見知り置きを✮
私の夜はこんなふうに言葉に触れて、その言葉から魔法が生まれて、世界が生まれて、その世界で遊びながら更けていくのでした。
続きを読む
自分ひとりの部屋、ブルーベル、天国の青、モンデンキント
突然ですが、私は自分の部屋が好きです。
大好きな本、美しい絵や硝子、石、花を飾り、手を伸ばせば届くところに友だちであるぬいぐるみたちがいる。
現在の住まいに私の一人部屋はないのですが、娘と二人暮らしのため娘が寝てしまえば居間はもう私ひとりの部屋。
このしずかな部屋で、そっと自分の時間のなかに身を委ねるとき、もうひとつの扉が開きます。
好きな言葉のひとつに、「子供部屋の住人」という言葉があります。これはそのままの意味ではなく、子どもの頃に愛し慈しんだ、人からはがらくたに見えても自分にとってはかけがえのないものたちが詰まった、やわらかな心の領域を持ち続けいるひと。という意味の言葉として捉えていて。
もうひとつの扉とは、この心の領域への扉のこと。
ヴァージニア・ウルフは『自分ひとりの部屋』の中で《女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない》と述べました。
ウルフの言う自分ひとりの部屋も、そのままの意味ではなく、誰にもおかされない心の領域のことでしょう。
私にもこのウルフのいう《自分ひとりの部屋》があり、それをよく《心の庭》と呼んでいたのですが、ふと読んでいた本たちから素敵なひらめきをもらって、このブログを書いています。
まずは松田瓊子。オルコットやスピリ、バーネットの影響を受けた純真で瑞々しい少女小説を発表しながらも23歳の若さで夭折した作家です。
彼女は闘病生活を過ごした離れを、自らの愛する青色でまとめ、そこを《ブルーベル》と名付けて執筆したり、手紙や日記を書いたり、音楽や読書をしたりしていたそう。
この《ブルーベル》は彼女にとっての《自分ひとりの部屋》の領域。
そしてアンデルセン。貧困にあえぐ時期の長かった彼が始めてまともな部屋を得たとき、そこを《天国の青い部屋》と呼んでいた。ということを知って、なんだかもう、とっても良いな……と思ってしまったのです。
私もこれまで庭と呼んでいた場所に、私だけの名前をつけたい!と。
どんな名前がいいだろう?松田瓊子もアンデルセンも、色が名前に入っているので、好きな色をいれようかしら。
いっとう好きなのは、すみれ色。それから白。純白も真珠色も好き。青も好きな青が沢山。
そして庭をひらく鍵となる、私のあいするものたち。例えば、白鳥。森。湖。雪。雨。月。つめたいもの─鉱石や硝子。やわらかいもの─天使の羽やレース。しずかなもの─夜、図書室。
たった一人で、そろりとつま先を伸ばす誰にもおかされない心の領域。その鍵穴にぴたりとくるような素敵な名前。ずっと考えているのですがまだ思いつきません。
ブログを書いたらなにかひらめくかも、と思ったのにな。
ところで、サークル名ってこの鍵に似た存在じゃないですか?好きだな思う書き手さんのサークル名を見ると、やっぱりその方が描く作品世界にカチリと当てはまっているというか。
逆に、サークル名でなんとなく好きな作品を書かれる方かも知れないという予感を得ることもあったり。
小説やアルバムのタイトルなんかも、そうだなぁ……なんてまた思考が脱線して、結局鍵はまだ見つけられそうにありません。
「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができるのです」
と、エンデの『はてしない物語』で学んでいますから、今夜もひとり庭に入り、ぴったりの鍵となる名前を探す思索に耽るつもりです。
ノートという扉。
ペンやインク、シールや切手、レターセット……といった文房具が大好きな私。そのなかでもいっとう愛する文房具は、ノート。
文房具専門店であったり、企画展のグッズであったり、素敵なノートを見つけては買い込んでしまい、我が家には結構な数のノートが存在している。これはただ集めて満足するだけのコレクションではなく、きちんと活用しているコレクションだからとお財布の紐を緩めに緩め、日々ノートの蔵書(?)を増やしている。
以下はコレクションの中でも特に私の生活に欠かせない数冊たち。

まずは日記。これはハリー・ポッタースタジオツアー内のお店で購入できるもの。
羊皮紙を彷彿させる紙色と、その場で刻印を入れてもらえるのがお気に入りで、スタジオツアーに遊びに行くと二、三冊ストック買いしています。
日記と言っても日々の記録を毎日つける真面目なものではなく、思いついたことや読んだ本のメモなんかを箇条書きにしたり、長く思いを連ねたいときは思うまま書いたり、という自由なもの。
それから、その日Xでつぶやいたことも、ログのように書き写している。



一月のページのいくつか。
この日記をつけ始めるきっかけは、自分のXの古い古い投稿にいいねをもらったこと。
通知から投稿を開いて読んだ途端、自分でも忘れてしまっていた出来事やそれから想起した思い出、その気持ちが甘やかな懐かしさと共に溢れてきて、嬉しくなってしまって。
ブログに文章を書くより、Xの140字のポストは気軽なので、なんというか……気持ちや想いが瑞々しいまま言葉になっている気がする。
https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/01/04/234723
この記事の過去のノートから見つけた言葉たちも、Xに投稿したその後にノートに書き写す、ということを日課にしていたころのもの。
こういう、日常からふわりと立ち昇った香りのような、“今日の出来事”というほど輪郭ははっきりしていないけれど、確かに心がなにかに反応した瞬間を、私は割とXに投稿しているのだと気付いて、またここ数年、それらを書き留めるようにしているのです。Xの投稿、古いものは消えちゃうしね。
このノートは無地なので、隙間に集めるだけで使えずにいたシールたちをえいや!と貼るようになり、ノートだけじゃなくシールの在庫もきちんと活用できて一石二鳥。
シーリングスタンプを押してみたり、チケットやショップカードや落ち葉が貼られていたり、娘からもらった手紙を挟んでいたりするため、一冊終わるころには二倍くらいの厚さに膨れ上がってしまうのだけれどそれもまた愛しくなる。
***
次は私が言葉のスクラップブックと呼んでいるノートたち。10代の頃からつけ始めてずっと続けている大切なノートで、宝物をひとつ選べと言われたらこれを挙げるかも。




言葉のスクラップブックとは、読んでいた本の中の言葉や、観た映画のセリフ、好きな詩や短歌……とにかく私が好き!と思った言葉をスクラップブックのように貼り付け、もとい書き付けているノート。
口のなかで何度も転がしたくなるような響きを持つ外国語であったり、花や鉱石の学名、各国の別名、花言葉石言葉、それらにまつわる神話であったり、音楽用語や妖精を呼び出す呪文などなど、様々な言葉たちのコレクション。
二年ほど前、花にまつわる短編集を編んだとき、このノートに何年もかけて集めた花に関する様々な言葉たちにどれだけ助けられたか。このノートがなければ、あの作品たちは書けなかったと言っても過言ではないと思う。
すみれ色に妖精たちの夢のようなイラストのペーパーブランクス社のノートはもういっぱいで、現在は以前このブログでも紹介したすずめやさんのにじみノートを。

言葉のスクラップブックをつけ始めたきっかけはモンゴメリーの『ストーリー・ガール』を読んで。
魅惑的な語りで、不思議な魔法のように聴くものを惹き込む力を持つストーリー・ガールが読むのは、先祖から受け継がれたスクラップブックに書き記された一族の日々の記録。
それまでスクラップブックといえば雑誌の切り抜きを貼り付けていくもの、というイメージしかなかったのでそこに言葉たちを書き付けていくというアイデアが斬新に感じられて、まずはモンゴメリーの著作から好きな言葉たちをノートに写していったのが始まり。
十年以上続けているので、古いノートを見返すと、そこに書き付けられた言葉から当時の自分の想いや記憶がふわりと匂ってくる。
引き出しの奥にしまい込んでいたレースのハンカチから、遠い日にふきつけた香水の香りがかすかに立ち昇ってくるように。
言葉は、私自身から生まれた言葉たちではないのに、そこに書き付けたことによってそのときの思い出も一緒に保管されている。そしてその言葉と思い出からインスピレーションをうけて、新たな物語を紡いだりする。
このノートは私の創作にとっても必要不可欠な、大切なもの。
***

これは本と、付箋と、ペンと共に日々持ち歩いてる小さなノート。大英図書館のグッズ。
これには読んでいた本ではっとした言葉選びや表現をメモしている。
一番新しいメモは三島由紀夫の『彩絵硝子』より
─雨が降っていた、薄荷の糸のように。


最後は、短歌のアナログ保管用のノート。ミドリの縦書き日記です。中心線が入っていて書きやすい。
欲を言うなら『なぞって書く格言』のページを減らしてノートページを増やしてくれたらさらに完璧。
友人からいただいた松栄堂の香りの栞 冬の星座を挟んでいるのでとても典雅な気分になれる。
以上が私の日々に欠かせないノートコレクションたち。
夜、しずかな部屋でお気に入りの紅茶をいれ、分厚くなったノートをひらいて今日見つけた言葉や感じたことを書き付けていく時間が、とても好き。
忙しない一日で、ごちゃごちゃになってしまったあれこれを、言葉に変えて、整理して、不要なものは捨てて、あるべき場所に閉まっていくような。自分の心の中に言葉や単語が並んだ図書館があって、閉館後にたった一人で蔵書整理をするようなひそやかな楽しさがある。
今日の分の整理が終わったら、目についたページをめくる。そこはいつかへと続く扉。
この扉はこれからも、いつまでも、増え続ける。
一月の日記、その二。
一月のこと徒然。
一月四日。
ブログやSNS、エッセイ本などで散々ホリデーシーズンに観るバレエくるみ割り人形について語り続けているけれど、実はここ数年はホリデーシーズンではなく、新年に観ている。
新年に観るくるみもとても良いもの。
クリスマスと、バレエへの夢と憧れに満ちた舞台はひたすらに楽しく眩しくて、新しい年の始まりのまっさらな身体と心に無邪気に染み込んでいく感じ。

去年は一人で観たので娘との鑑賞は久しぶり。
一時期は週の半分以上バレエの稽古に費やしていた娘だけれど、今は辞めてしまって、観劇に誘っても断られることのほうが多かった。
ところが今年は、観に行く?と聞くと行きたい!と返ってきて。しばらくバレエから離れたことで、純粋に楽しめるくらいの距離感になったのだとしたら嬉しい。
私自身、音楽を押し付けられ、それしか選択肢がないように思い込まされていた時期があり、音楽を嫌いになってしまうのが嫌だった。
母親一周目らしく、同じ轍を踏みかけていたので(それに気付かせてくれたのも娘であるから情けない)、娘が清々しい気持ちでただ「きれいなもの」としてバレエを眼差せるようになったことは喜びであり、それと同時に戒めにもなっている。


ロビーのクリスマスツリーのトップは、おそらく舞台に登場するツリーとお揃い。
くるみの魅力については繰り返し語っているので割愛するけれど、今回もそれはもう楽しかった!
私は池田&奥村ペアのくるみが好きでこの日もそのキャスティング。おとぎ話からそのまま飛び出してきたかのような二人のパ・ド・ドゥにうっとりと息を漏らす。
一番好きな雪片のワルツは、粉雪が舞い、きよらかな合唱付きで一糸乱れず踊るコールドの夢みたいなうつくしさに何度だって泣いてしまう。
クライマックスのパ・ド・ドゥで、高まりゆく旋律に終わらないで…の気持ちになりながらも、やがてクララと同じように夢から醒めて……終幕。
はー、素晴らしかった!
バレエを観たあとはいつもより背筋を伸ばして、靴のなかでこっそりつま先も伸ばして歩いてしまう。いつだって、このような憧れのために、私は生きてるなあと思いながら。

劇場の売店で見つけたチェロの栞。
実はこのシリーズ、以前友人が写真を送ってきてくれたもの。
私と友人の好きなアプリゲーム『アイドリッシュセブン』のシャッフルトーク 2021において、友人の好きな千さんがヴァイオリン、壮五さんがピアノ、私の好きな巳波くんがチェロを持ったカードが実装されていて、その時友人はヴァイオリンとピアノの栞を見つけて「これでチェロがあったら完璧なのに!」と送ってきたのだった。
それ以来私も書店でこのシリーズを見つけるとチェロがないかと探していたのだけれど、弦楽器はヴァイオリンのみ。
ところがオペラパレスの売店にはさすが、フルオケで揃っていたのです。
嬉しくなっちゃってピアノとチェロ(どちらも巳波くんが弾く楽器)を購入し、新年の挨拶もすっ飛ばして友人にラインを送ってしまった。
友人も購入するとのことで、これで作曲家組が揃います。私が思う、巳波くん好みの本に挟んで使おう。
**
仕事が始まり、始まって早々忙しさに追われる日々の中、現実逃避のように作歌が捗る捗る。
私のSNSをフォローしてくださっている方はご存知だと思うのですが今年エッセイ数篇+短歌100首の本を刊行予定なので、それに向けた歌を詠んでいる日々なのです。
この本については、また詳しくお知らせするつもり。現在80首まできたところ。
思い出の群生地にて傘をさす頼りなき透明なうすはり
ほぐれ散らばる音符らを鳥籠の肋骨のなかへ抱き寄せて 朝
神経に結んだリボンほどくとき衣擦れの音あまく疼(ひい)らぐ
憧れは遠くつめたく澄んでいる硝子細工の花の幻影
きよいまま生きていたいと瞼から真珠をこぼす夢のあわいで
↑新刊に入る短歌のいくつか。
自分の書いたものを読み返していて思うのが、鳥籠の肋骨とか、羽根の名残の肩甲骨、とか。
しろい骨とか、ほのあおい静脈、とかがよく出てくる。
文章のなかにでてくる骨の表現、骨を使った比喩が、昔からすごく好きなのだ。(バンギャだから説もある)
骨っていいのよ、しろくてつめたくて、かるくて綺麗。
どんなに幻想的でも、どんなに夢のようでも、その奥にしろくてつめたい骨組みの輪郭を感じるような文を書けたらいい、と思う。
***
一月五日
大好きなアプリゲーム、『魔法使いの約束』のアニメが始まった。
実は昨年先行上映会に当選し、第一話と第二話を一足先に観ているのですが、とても丁寧に作られているのが感じられて本当に嬉しく思った。
とにかく、ムルがとてもかっこいい。
ムルはあの世界の肝心要なキャラクターでもあり、私たちとあの世界を繋ぐガイドのような役割もあるので制作側の気合が感じられる。
Miliさんの主題歌も素晴らしくて、これから放映日の月曜日が毎週の楽しみになりそう。
友人がまほアニ放映をうけて「月曜日、“月”というだけで好きになってしまう」と言っていて、素敵だな、と思った。(魔法使いの約束は、月が重要な意味を持つ存在なので)
アニメで気持ちがいつも以上に盛り上がっているので、実はずっと開けきれていなかったキャラクターたちの親愛ストーリーに手をつける。
なにせ親愛を開けるには料理を魔法使いたちに作らなければならず、ただでさえ料理が嫌いな私は「ゲームのなかでまで料理したくない!」と後回しにしていたというわけ。
フルボイス実装にも背中を押されて、ルチル・オズ・ミスラ・ムル・オーエン・フィガロ・ファウスト…と読みまくる。とりあえず私の好きな魔法使いと、友人たちの好きな魔法使いから。
ひとつひとつのストーリーへの感想は書かないけれど、オズの親愛を読んでいてふと気付いたことがあったのでそれだけ書いておこうと思う。
長寿で、世界最強の魔法使いであるオズの語る「世界でたった一人の孤独と快楽」……なんだか音楽で舞台に立っていたときのそれと重なると思ってしまった。
舞台にたった一人で立つ私を見上げている人はたくさんいるけれど、そこってものすごく静かで孤独で、私と音楽─音楽を通り越して世界そのものとの対話をしているような気持ちになるのだ。
オズが他者から特別視され恐れられるように、芸術の世界に透徹していくひとを他者はやはり特別視する。尊敬であったり、侮蔑であったり、憧れであったり、畏れであったり。
世界と対峙している私の孤独と快楽は、他者はもちろんのこと同じ音楽家同士であってもその領域には介入できない。
誰にも、誰とも共感共有できない孤独と快楽。
魔法使いの約束の北の国に対して、好きというだけでなくどこか懐かしく感じるのは、北の国の冷たさ、静けさ、神さまめいたもの(北の国でいうならば魔法使いにとって一番近しくも、絶対の境界がある圧倒的な自然とか)と対峙したときの畏怖と快楽とその孤独とが、舞台に立つときとすごく重なるからなのかも知れない。
話は逸れるが、私が「好き!」と思う小説や歌、絵画や音楽など、作者が雪が降るところで生まれ育ったひとなことがとても多い。
決して狙っているわけではなく、自分でも「わ、この人も!あの人も!」と驚いてしまう。
私自身の作品も季節で例えるなら冬、の質感を感じる文だと言っていただくことが多くて、私の心の中の創作の庭には溶けない雪が存在しているのかもしれない。
私自身は東京生まれ東京育ちだけど、ここで以前も書いたが18歳まで函館に別荘があり、夏と冬の長休みはそこで過ごしていた。
雪慣れしていないひとにちょうどよい北の大地というか、函館はもちろん積雪するけれど決して豪雪極寒地域ではないのでわりと北国の冬と雪のいいとこ取りをして過ごしていたと思う。
そこでの日々はたくさん甘やかな思い出があり、その原風景が私の好き、と思う物語(絵にも音楽にも物語がある)へ影響しているのかも。
なんの話だっけ。
オズの話だ。オズ、魔法使いの約束の魔法使いで二番目に好きなキャラです。彼の瞳が、私の誕生石の色なのが嬉しい。オズが書く文章もやはり、冬の匂いがするのだろうか。
***
一月七日。

無病息災を願って七草粥をいただき、バレエのお稽古はじめへ。
先生からここ四年ほど取り組んでいるRADのシラバスの試験を受けないかとお声がけしていただいたものの、それに向けての特別レッスン等に参加できる見通しがたたないので泣く泣く断った。
今回の試験シーズン後、クラスでのこのシラバスは一旦終了となるので、ここまで長く取り組んできたから試験をパスして終わらせたかったけれど……。
基本的に私はチェロでもバレエでも舞台に立ちたい気持ちは皆無で、内省的なスタンスでこのうつくしいものたちを学んでいる。
試験はステージではなく、個人の学びの区切りのような形のものだからいつか受けてみたいなぁとは思っているのだけど、人生はタイミング。
今回はタイミングが合わなかった、ということだ。
***
一月九日
最近、寒くて暗い夕暮れの帰り道には黒百合姉妹を聴いている。うっすらとオリオンの輝く薄墨の空と、耳から聴こえる幻想的な歌声によって、片翼を失ってこの地上に堕ちてしまった天使の気分になれるのでおすすめ。
https://youtube.com/playlist?list=PLkd-rIpGhFIX9KN9ug2MdVAsd_k7Wr0To&si=pnYvWgRNR782n5gd
私と同世代で趣味嗜好を同じとする方ならご存知であろうアーティストですが、知らない方に簡単に説明すると黒百合姉妹とは幻想的で神秘的、ときに耽美、退廃的な独自の美学を貫いた音楽ユニット。
讃美歌のようだったり、中世やバロック音楽のようなうつくしい旋律の楽曲で、一時期耽美派乙女たちはみんな聞いていたユニットです。多分。
インディーズ時代のラルクがSEに使っていた、とか。
私も少女時代からずっと好きで、こんなふうに寒さが研ぎ澄まされる季節になるといっとう聴きたくなってしまうの。
などとSNSにポストしていたらそのタイミングで、天使禁猟区のポップアップストア開催のお知らせが!
天使禁猟区は1994年〜花とゆめにて連載されていた由貴香織里の漫画で、天使と悪魔、人間たちによる戦いと運命と様々な愛のかたちを描いた私がとっても思い入れのある作品。そのボイスドラマの主題歌が黒百合姉妹だった。
実は昨年末、現在連載中の20年振りの続編・天使禁猟区 東京クロノスの単行本をまとめ買いしていて。
天使禁猟区が好きすぎるため、新連載に手を出すのを躊躇していたのですが、あまりにも忙しい日々ふとウェブで無料配信分を読むと、ラファエルだのミカエルだのジブリールだの、懐かしい名前にたちにわーーーーーー!っと大興奮し、その勢いで単行本を買い、お正月に一気読みした、というわけ。
私のあいするロシエルさまが今後なんらかの形でお話に登場したら、フロッピーディスクをMacBookに強引に捩じ込み、喜んでゴーレムになって身体を差し出す準備はできております。
実は、昨年刊行したエッセイ本へいれた短歌に、天使禁猟区のライラとドールをイメージした短歌がある。
明確にイメージ短歌というより、描きたい少女像があり、そのイメージのひとつが彼女たちだったので注釈はつけなかったのですが。

三首目までがライラ、最後はドール。セヴィーではなくてライラ、なのが私のこだわり。
知らない方にはわけのわからない話を続けてしまった。あ、ここにも鳥籠の肋骨、が出てきている。
天使禁猟区の連載開始は1994年ですが、舞台は1999年の東京。世紀末。
私のローレライのメジャーデビューも1999年、『ヴァージン・スーサイズ』の公開も1999年だったらしい。うーん、私の魂この年に形成されている。
当時12歳。だからずっと、12歳は特別な歳で、いつまでも12歳の延長のような気持ちでこの歳まで生きています。これからもきっとそう。
***
一月十一日

一冊の本を買いに行ったのに、数枚のお札を失い、両手いっぱいで帰る謎。
今月お誕生日月だからと、普段はよく考えてから手に取る国書刊行会の本もえーい!と購入している。実はついにボルヘスの『記憶の図書館』も購入した。
私の2025年初のゴシックロリヰタ精神論エピソードは、ボルヘスを買ってしまったがためにArtherapie(ゴルチエのサブデザイナーのブランドである、デザインはあの頃のゴルチエそのまま)のキーケースが買えなくなった、です。
どんどんと積読が増えていき、積まれた本たちを眺めるのも酔狂な楽しみではあるのですが、人生は有限なので少しずつ積読本を崩していこうとしている。
私は髪をハイトーンにしているため、月に一度の美容院が三時間〜かかるのですがこれが積読解消にうってつけの時間で、小説やら歌集やらをいつも四冊ほど持ち込み、せっせと読む。

今月の持ち込みリスト。小説は再読なので積読解消する気があるのかないのか。
ちなみに左のポーチはナイン・ストーリーズさんのブックポーチ。単行本サイズも入り、メモや付箋やペンなんかも一緒に持ち運べる。
カバーや帯がカバンのなかで傷むのがいやな方には非常におすすめ。
定期的に新作が出て、どれもかわいくて何個も欲しくなってしまう。ブックポーチだけでなく、ブックカバー、栞コレクションも増えていくので、それらを活用するためにも黙々と読む日々である。
お正月のこと徒然
今年の初記事がなんとも胸苦しいものになってしまったので、ここで一月の上旬をちょっと振り返った記録をつけておきます。
まずは三が日のこと。
一月一日。神の母聖母マリアの祝日、世界平和の
日。
すっかり日付が変わるまで起きていられるようになった娘が、一日になった瞬間に手紙を渡してくれた。去年一年の楽しかったこと、それから私たちと共に暮らしいてる私の好きなひとのぬいの姿のイラスト!

右端の言葉は、ここではローレライと呼んでいる大好きなアーティストの、私が一番大切にしている曲の歌詞です。
新年早々、嬉しい贈り物をもらってしまった。


朝になり、二人で新年のミサへ。
いつも元旦は、マリア様の心の青空な気がする。曇や雨より、きりりと寒くとも澄み渡った空の元旦のほうがやはり嬉しい。
菊地枢機卿のお話を聞きながら、飛び交う情報に揺さぶられず心のうちで静かに見極めること、それと同時に世界で起きる様々な暴力に心を向けること、どちらもバランスを取りながらやっていきたいと考えていた。

道すがらビッグイシューの販売員の方がいたので、購入。最新号ではなく先月号。なぜならエッセイ特集!
ミサ後に入ったカフェで料理を待ちながらぱらぱらとめくる。
娘に、この雑誌はなに?と質問されてビッグイシューの仕組みについて説明した。
私もお財布を持ってくれば良かったというので、では帰りにまだいらしたらもう一冊ママが買ってあげる、と話していたのだけど、帰る頃にはもういらっしゃらなかったな。
そういえば、東京メトロの駅で配布されているフリーペーパー『メトロポリターナ』が好きだったということをふと思い出した。ここ数年は読んでいないけれど、私が楽しみにしていた2008年〜2010年頃は心惹かれるCopyrightや特集ばかりだった。
メトロポリターナは毎号鮮やかな赤色に白抜きロゴのデザインだったので、ビッグイシューを読みながら思い出したのかも。
あの頃、個人でフリーペーパーをつくっている方も沢山いた。大抵そういう方はホームページやブログをやっていらして、連絡すると送ってくださるの。当時いただいたフリーペーパーのいくつかは、今でも大事にしている。
私が特に大切にしているのはB5サイズの紙を折りたたんだ所謂折本のフリーペーパー。
手書きの文字やコラージュによって喫茶店や本や音楽のお話をしているもの。
『住んでいる街 住んでいない街』というタイトルで旅先のこと、そこで読んだ本のこと。
『空想の美術館』というタイトルでバルテュスとデヴィッド・ハミルトンのこと。
一冊まるまるカヒミ・カリィについて綴られたものや、『I♡ROLA』と作者さんの愛猫についての号もある。素敵でしょう?
今、この作者さんがなにをしていらっしゃるのかは不明だけど、いつかインターネットの海で再会できたら良いな、と思う。
この頃のフリーペーパーやホームページやブログは、なんというか秘密めいていて。
リボンの端に小さく刺繍された合言葉や、よく感性を澄ましていないと見つけられない鍵に気づいたひとだけが訪れることの叶う庭のような感じで好きだったな。
話がどんどん逸れてしまった。
カフェのあと、こちらも毎年恒例のお墓参りへ。
大抵年末に母が掃除を済ませ、花も供えてくれている。寒い時期なので元旦はまだその時の花が生き生きと咲いているのでお線香だけあげて、ご挨拶。
コロナ禍で休止していた出店も最近は復活しているので、真っ白い湯気を上げる大鍋にいれられた甘酒と、昔ながらの甘いものをいただいて帰宅。


フルーツ飴と、わたあめ。
フルーツ飴、見た目は断然姫林檎が一番!だけれどぱさぱさ林檎を生のままいただくのは林檎好きの私には苦しいので、葡萄をセレクト。
食べやすいサイズだし、釜から出たばかりの硝子にも似た艶をもつ飴のぱりっとした食感と、ぷちりと弾ける葡萄の甘酸っぱさがとっても美味しい。
わたあめは巨大で、道行くひとから沢山の視線をいただきました。
帰宅後は掃除をしたり本を読んだりしてのんびりと過ごす。
今月読んだ本についてはまた別にまとめようと思っているのでここでは割愛。

夜に妹がきて、お節やお雑煮を食べ、おしゃべり。昨年引っ越した妹とは住まいが近くなったのでとても嬉しい。
ウィーン・フィルを三人で観ながら、バレエの物語を三人三様好き勝手に解釈したり、見つけたら良い一年になるという幸運のブタを探したり。ブタさんは、今年は見つけられなかった。しかし三人とも、明日にはブタさんを探したことすら忘れているようなひとたちなので大丈夫。
大晦日まで仕事をしていたから三が日はどこにも出かけないつもりでいたけど、妹と今年観たい映画について話していたら「明日行かない?」と言われ、考える前に頷いていた。
妹の誘いはいつも突然で、それが近所でご飯を食べよう、から明日ディズニーに行こう、軽井沢に行こう、まで同じ気軽さで誘ってくるので驚きつつも楽しくなってうん!と返してしまう。
そんなふうにして、元旦の夜はゆっくりと更けていったのでした。
一月ニ日
朝一で妹と娘と映画館へ。

観たのは『ライオン・キング:ムファサ』。
アニメーションのほうは幼い頃に、フルCGのほうも映画館で観ていてそれがとっても良かっただけに、過度な期待はしないでいようと思いながら観ていたのだけれど……とっても良かった!
三人横並びで鼻をすすりながら観ていました。
大好きなマッツ・ミケルセンが声優として出演していて、想像以上に歌っていて嬉しい驚きだった。マッツが演じたキロスの物語も知りたいなあ。
アニメではスカーが好きなので、スカー好きとしては思わず鳥肌が立ってしまうシーンも。
最近ずっと単館系の映画ばかり観に行っていたけど、単館系もシネコン系も満遍なく観に行く年にしたい。
映画の終盤から私は偏頭痛がひどくなってしまい、一人で帰宅。娘と妹は実家に顔を出し、そのあと二人で初売りにも行っていた。元気ねぇ。
私は薬を飲み、毛布にくるまり、頭痛が弱まってからはひたすら読書。
街も部屋も静かで、頭痛さえなければ、いろんなことが捗る時間だったろうに!
一月三日。
今日こそは本当に家ごもり。
朝からやっとツリーやクリスマス雑貨を片付けた。
私は季節のルーティンやイベントの特別を楽しむのが好きで、慣例化したそれをこなしていくことに喜びを感じるタイプなのだけど、この冬は何かと忙しく、スルーしがちだった「いつもの」がたくさんある。
そういうとき、気持ち悪くそわそわしてしまうのだけどこの冬はなぜか心から「まあいいか」と思って、できる範囲のことをゆるりと楽しんでいる。良いことかもしれない。
それにしても雪が降ってもおかしくないくらい寒い一日。
あたたかな部屋で、チェロの弾き初めをする。

最近課題が難しくなっていって二週間ではとてもさらいきれず、泣きながら譜読みすることもしばしば。SNSのフォロワーさんに、私のように大人になってから弦楽器を始めた方が何人かいらっしゃって、その方たちの投稿に励まされながら頑張っている。
毎日練習することが仕事のひとつであったころがあるので、仕事しながら、家のことをしながら、毎日弾くってとっても難しいのねぇ!と新鮮に驚いてしまう。
チェロもバレエも、私が私のためにただ純粋に好きでやっていることなので、ときに泣きながら譜読みしても、もう少しこのうつくしいものたちとの距離を縮められるといいな。
*チェロにまつわるessay→https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/11/04/002330
ブログを書くのが久しぶりで、記録のつもりが、そこから想起したものへ脱線が続いてすっかり長くなってしまった……。
今年は去年よりまめにこの場所も活用していきたいので、また覗いてくれたら嬉しいです。
私だって、愛してるよ
過去にこんな日記https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/10/08/225709を書いていた。
そして今日これから、似たような日記を以下に綴ります。
私はこの世界で好きなものより嫌いなもののほうが多いし、好きなひとより嫌いなひとのほうが多い。
私の好き、は潔癖で頑固なので、心のそこの領域に入れるものはとても限定されている。その代わり、一度入れたら、多分その対象が知ったら引いちゃうんじゃないかっていうくらい徹底的に愛してしまう。
その愛をその対象に過剰に伝えたり、押し付けたり、同じだけのレスポンスを望むことは私の嫌い、の領域にある行為なのでしないけど、私だけが知っている裡で、とても愛している。
私が嫌い、の領域にいれているもののひとつが、《友達の彼氏》《友達の配偶者》。
どんなに良い人でも、どんなに友達が幸せでも、それとは関係のない私個人の気持ちで、嫌いです。とっても、嫌い。
身も蓋もない言い方だけど、《男の人》に友達を《奪われた》と感じてしまう。
これは根本的に私に男性嫌悪があることも影響していると思うけど、「結婚なんて」「男なんて」と言い合っていた友達から結婚の報告をされると、おめでとうといいながら、全然喜べない。
一番に思うのは、「私だって、愛してるのに」ということ。
もし愛の深度を測る機械があったら、その相手の友達への愛と、私の友達への愛とは同じだけの深さがある。
もし愛の大きさを測る機械があったら、その相手の友達への愛と、私の友達への愛とは同じだけの大きさがある。そう言い切る自信がある。
ただ、愛の種類が違うだけ。友愛と、恋愛。
私の愛は、いつも恋愛に負けてしまうと感じる。
私たち、愛してるって伝え合ってた。思い合ってた。
私のあなたへの愛は、その相手と同じだけの愛なのに、その相手の“恋”愛によってもたらされる何かたちを幸せと呼ぶのなら、そう、私はそれをあなたに与えることができない。
それがかなしくて、くやしくて、さみしくて、だから《友達の彼氏、配偶者》が大嫌い。
去年の暮れに、大好きな友達から配偶者について海外移住するという旨を聞かされた。
その友達を見てると、この子は本当にこの結婚によって得られるさまざまなことに満たされ、幸福なのだということをしみじみと感じる。
幸せそうな友達はとってもかわいいし、配偶者が良い方なのも分かる。
でも海外移住すると聞いたとき、上に書いたのと同じ気持ちにおそわれた。
友達はとても楽しみにしているし、きっと楽しんで日々を送るし、そういう子だから大好きなのだけど。
でも遠い遠い国に行ってしまって、これまでのように会うことができなくなることがさみしいし、八つ当たり的にまた《男の人》に《友達を奪われた》ような気持ちになる。
今日、大好きな友達から結婚すると聞かされた。
私はスマホを握りしめながら泣いた。
さみしくてくやしくてかなしくて泣きながらおめでとうの文字を打った。
ラインで良かった、と思った。直接会ったり、通話でだったら、おめでとうに詰まってしまって
ねえいつまでもここで自由に、笑って、好きなことを語り合って、私たちは私たちだけで事足りるねって言い合っていたかったよ。と言ってしまったかもしれない。
友達たちは、結婚しようが出産しようが全く彼女たちであることに変わりがないひとたちばかりで、きっと今日の友達だってそう。
結婚したからって私たちの関係は変わらない。
でも同じだけの愛を持って彼女の側にいたけど、“恋”愛という愛と、その延長線としての婚姻に負けてしまったと感じることが、単純に悔しかったり、またそれを負けたと悔しがる私自身も恋愛至高主義に基づく規範に毒されているからではと不安になったり、素直におめでとうを言えない自分が単純に嫌になったり、そんな気持ちでぐちゃぐちゃになってしまう。
私自身も結婚していた時期があるから、だれかをこんなふうな気持ちにさせていたこともあったのかもしれないし、私たちはずっと孤高で、私たちが認めたうつくしい純真だけを抱えていましょうねと小指を絡め合うなんていい加減少女じみすぎてるのかもしれないし。
あと何回、こういうことを経験するんだろう。
あと何回、私だって、愛してるよ、と世界の底で噛み締めるんだろう。
そんなことを考えながら、この取止めのない日記を書いています。
あなたが幸せでありますように。これは本心。
でも、あなたの彼氏も配偶者も大嫌い。これも本心。
あなたが結婚してもあなたが大好き。これも本心。
全部本心だけど、今日送ったおめでとうはやっぱり嘘。
あなたは知らなくていいけど、私だって、愛してるよ。たぶん、そのひとよりも。