もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

最近の短歌

天使になりたかった少女のtanka

 

・泥濘に落ちた花びら骨に刺し開かぬ扉に叫ぶ信仰宣言(クレド)

・祈祷のたびに抜ける落ちる羽根 天には届かぬ「かみさま」の音

・おやすみ砕かれた翼骨のうえ 間違った世界を揺籃にして

・かつて神に焦がれた少女が統べる楽園にかつて少女だった神が在り

 

 

不眠のtanka 

 

・指先でぷつりと押し出す白い星 眠れぬ夜のシーツにシリウス

・噛み切った三日月の爪に鼻先寄する空腹の獏の数をかぞえて

・ひとりだけ夜の底におとされた茨姫 伸ばした手のひら月光にひたす

・月の見る夢のなか 乾いた眼窩にアンタレス嵌め

 

人形になりたかった女の子の主を失って人間になってしまった人形のtanka

 

・リューズもリボンも巻かれぬかろき身体に包まるる生命がいま瞠る

・天へ還った少女に代はり地に孵る少女 球の関節もすべらかに

硝子の瞳孔に夜を映し流るる涙が肋骨を濡らす

・飛ぶには重く墜つるには柔い両脚にリボンを巻いて旅立つ少女の背中にリューズは在らず

 

 

─薄氷通信─all rights reserved

 

 

ある休日

2.19

春通り越して5月のような1日だった。まだまだ2月なのだから先走らないでほしい。冬が終わってしまう準備は出来ていない。まだ熱い紅茶が飲みたいし、深夜の冷たい夜空とか、編みかけの編みぐるみとか、乾いた草や土の匂いを抱きしめていたいから。

 

 

早起きして家事を済ませ、午前中にすこしチェロをさらう。弓が痩せてきてしまっているので張替えに行かなければならない。ピアノの調律の時期でもある。専攻だった声楽は、お金がかからないものだったな…としみじみ思う。体調を崩してしまえば取り返しがつかないのだけれど。

 

お昼、久しぶりに母に会う。あまりにも暑いのでクリームソーダを飲んでしまった。負けた気がしたけれど、宝石のような緑のジュースは美味しかった。

母との関係はすごく曖昧なので疲れてしまうこともある。今の言葉で言うと毒親にしっかり当てはまるひとだったので、私の創作を褒められても、それが彼女のしてきたことへの歪んだ肯定と赦しに繋げられると叫びだしたくなる。

けれどご飯は美味しかったしプレゼントをもらったのでまぁいっか。時たま、夜に思い返してもやもしてもやっぱり寝て起きたら忘れるので、我ながら能天気。

 

HARIOのガラスのピアスをお誕生日プレゼントでいただく。欲しかったものなので嬉しい。季節問わずつけられそう。

そういえば何年もインダスを開けたくて仕方ないのだが、ホールすら安定しないので諦めつつある。痛みには強いのだけど、ピアスの膿やかぶれはタトゥーよりも辛かった…(タトゥーは足首の内側と腰に2ついれている。見えそうで見えない場所に秘密を持っているのは楽しいことだ)

 

 

チェーンとキャッチが繋がっているので安心。私はよくキャッチを排水口に落としてしまうので。

硝子を揺らしながら、夜はバレエのレッスンへ。

充実した休日だった。

 

 

マイホーム・ナイトシネマ

最近自宅で鑑賞した映画のまとめ。

観たい上映中作品も配信作品もたくさんあるし、読みたい本もたくさんあるし、執筆もしたいし、編み物もしたいし、絵も描きたい。夜が一日に一回じゃ足りない、と日々思っている。

 

2.17

■汚れなき情事

 

イギリスの片田舎、少女たちの寄宿学校。憧れの存在である女教師ミスGとそれを取り巻く女子生徒達の間に1人の転校生が入って来たことで亀裂が生じ、やがて悲劇が…というあらすじ。

 

家庭に帰ることが出来ない少女たちの寄宿学校というロケーション。先日ブログに書いた理瀬シリーズもそうだが、このロケーションは私が一番好きなもの。

満月の湖に裸で飛び込むナイトスイミング。「一番大切なのはdesire!」の言葉とともに跳ぶトランポリン。

閉ざされた世界は思慕と憧憬と絶望が微熱のようにまとわりつくユートピア。そこに現れた一人の少女がいれたヒビ(原題はCRACKS)によって始まる悲劇。

情緒不安定で不穏な物語。

でもそここに少女的なフェティシズムのモチーフが散りばめられていて、一つ一つのシーンが美しい。どことなく小公女セーラを連想させるフィアマや、オフィーリア或いは人魚姫などラファエロ前派の絵画めいたスイミングシーン、ミス・Gを崇拝する主人公ダイの頑なな眼差し、聖アグネス前夜の宴で男装姿で舞い踊る少女たちの酩酊の眩しさと危うさ。

 

なによりミス・Gのエヴァ・グリーンが素晴らしい。

憧憬の眼差しを受けていた彼女の芝居じみた口調や煙草を咽む姿は確かに魅力的。けれど物語が進むに連れ、彼女の振る舞いは胸が苦しくなるようないたたまれない気持ちにさせる。

フィアマに執拗に告げる「あなたと私は似ている。だから共有しなければ」ということばが切実で、哀しい。

やがて一人の少女の死によって彼女たちの楽園は崩れ去り、ダイはそこから脱出する。

たちの悪い微熱と悪寒の中で見る夢のような、うつくしければうつくしいほど苦しい作品。

何年も前に敬愛する方が乙女ノワール映画と紹介されていたのがきっかけでこの作品を観たけれど、まさに言い得て妙だと思う。

決して後味の良い物語ではないけれど、時おり憑かれたように無性に見返したくなる映画の一つ。

 

2.22

エルミタージュ幻想

 

お友達と話していて久しぶりに観たくなった作品。

エルミタージュ美術館で、3世紀にわたるロシア近代史を映画史上初の90分ワンカットの手法で描いた作品。

現代に生きる映画監督と、19世紀のフランス人外交官が、幻想と現実の区別もつかないままエルミタージュ美術館の中をさまよう…というあらすじ。

 

ロシアの歴史には明るくなくて元舞台オタクらしくアナスタシアとエカテリーナの時代だけやたら詳しいという私。この映画を観るたびにロシアの歴史について勉強しなくては…と思う。

90分間、夢と現の狭間のような旅に誘われて、夜、ぼんやりとした明かりの中で観ているとなんとも不思議な心地になる。

歴史という記憶の高揚感と浮遊感が走馬灯のように流れていき、美しい美術品と華やかな舞踏会の後、夢から醒める。

─私たちは永遠に泳ぎ永遠に生きるのです

という台詞で締めくくられる映画は、一匙の寂寞を残す。作中語られるロシアへの政治的な皮肉は、現在のロシアのことを思うと深いため息が出てしまう。

とはいえ、作品としては素晴らしく、この目眩く幻想に身を委ねるのは癖になる。

お友達と同じ時間に各々鑑賞していたので、離れた場所で同じ夢を見ているのも楽しかった。

ぼんやりと、揺蕩うように鑑賞する映画というのも好きだ。

 

 

この三連休は配信されている観たい作品を消化するつもりだったのに、エルミタージュの幻想にあてられたのか発熱や頭痛に苦しんでしまう結果になった。

寒暖差や気圧が厳しい2月の終わり、みなさんもどうぞお気をつけて。

 

 

 

 

 

天使みたいにかわいい私の話

川野芽生さんの初のエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』を読んでいる。 ロリィタや少年装との出会い、エルフや幻獣への憧れ、人形になりたいという気持ちについて…装うことで本来の自分を取り戻していくことが綴られたエッセイに、冒頭から泣いてしまった。(ちなみに私も昔も今もロリイタ装を愛している)

そうなのだ。“女の子”や“女の子らしい”は、私にとって物語めいた存在で物語としての憧れであり、“女の子らしいもの”(女の子らしいといわれがちなもの)を愛しているのはただただ純粋にそれが好きなだけ。誰かのためや、こうあるべき、に沿うためじゃない。私が私のために選んだだけ。若草物語でジョーではなくメグが一番好きなのも、ディズニープリンセスでベルやアリエルではなくて白雪姫が一番好きなのも。

 

以前、ロマンティシズムやエレガンスを愛することへ他者から向けられる視線についてここにも書いた→https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/05/03/011449

 

川野さんのエッセイを読みながら、同じ気持ちを持ち、不快感を持ち、憤り、絶望し、それでも自分の理想の自分に還っていこうとするひとがいることに励まされるようでひたすら泣きながらページをめくっている。

美しいものを美しいと思うことに付随する搾取、美しくあれという規範と、美しくあろうとすることへの嘲笑、不躾な視線…かつて私も“ぶりっ子”とからかわれ、私の趣味や愛するものの上澄みだけをみた異性から“理想の女の子”という判を押されることに憤って、絶望していたときがあった。

時代や環境が変わって、そういう言葉や視線を投げかけられることは少なくなったけれど、本を読み進めながらかつてそうやって傷つけられたり、あるいは自分で自分を貶めたりしてしまったときに出来たかさぶたが、癒えていくようだった。

そのかさぶたのところには、かつて天使の羽根があった。毟り取られてしまった翼を、私は少しずつ取り戻している。

川野さんは“そして私はかわいいピンクの竜になる”と言っている。私はいつか“かわいい白い天使になる”つもりだ。

 

そういえば、以前別のサーバーで綴っていたブログで、高楼方子さんのYA作品『緑の模様画』に登場するアミについて書いたことがある。

『緑の模様画』は海の見える坂の街で、多感な三人の女の子が過ごした不思議な時間のお話。

バーネットの『小公女』がキーになる謎や、時を超える不可思議な出来事。散りばめられたモチーフも素敵で、春になるといつも読み返す一冊。

主人公三人のうちの一人、ぷっくりした頬とおさげ髪のアーメンガードのような少女がアミである。彼女もやはり、かわいいもの、綺麗なもの、ロマンティシズムやエレガンスを愛するひとだった。

私はお小遣いで生花や刺繍のハンカチを買うことを友人に驚かれたアミが恥ずかしがりながらも、はっきりと“だってきれいなんだもの”と答えるシーンが大好き。

真新しい制服に身を包んで中学に進んだばかりの少女のお小遣いは限られていて、他にも欲しいものは沢山あるだろうし、花やハンカチを買うことを“気取っている”、“いい子ぶりっ子”とからかう人だってきっといただろう。

けれど、“ただ美しい”という理由で花屋で花を選び、繊細な刺繍を慈しむ心がいとおしくてたまらなくて大好きなのだ。

 

“女の子らしい”世界を愛するひとはその世界の色彩や質感からふわふわとした印象をもたれることが多いけど、じつは頑なで頑固でとても強い心と誇りを持っていることを私は知っている。

その世界を愛する硬質な心を、誰にも触れさせないことを私は知っている。

“だって、きれいなんだもの”と言って、世界の規範やバイアスに中指を立てている。

私の装いや髪色にはジェンダーバイアスだけでなく、“母親”と“年齢”というバイアスもかかるときがある。

お母さんに見えないね、という褒め言葉には批判の棘が秘められていることもあるし、純粋な褒め言葉として投げかけられても“だってお母さんであるのが私の全てじゃないし…お母さんの前に私だし…”ともやもやする。

最近は“私は天使だから”と返すようにしている。相手が怪訝な顔をするのが可笑しくて、心のなかで中指を立てる。

誰がなんと言おうと、私は私が好きだし、私が美しいのは私のため。それだけだ。

 

 

 

 

コット、はじまりの夏

2.16

《コット、はじまりの夏》

友人と大好きなシアター、新宿シネマカリテにて鑑賞。

大家族の中で育ち、家族といても孤独を感じていた9歳の寡黙な少女コット。(父親はギャンブル依存症だし、生活は困窮していて、両親共にネグレクト気味の家庭だ)

そんな彼女は、夏休みに預けられたアイリン、ショーンのキンセラ夫婦のもとで優しさと愛情に包まれ、初めて自分の居場所を見つけていく。というあらすじ。

 

どうしようもない悲しみと痛みを伴いながらも、光の射す物語だった。

台詞やストーリーで多くを語らずとも、心の繊細な動きが描かれているところが素晴らしくて静かな空気感にすっと引き込まれる。(ちなみに英題はThe Quiet Girl)

アイルランドの長閑な自然が美しく、水の冷たさや空気のなかに含まれる緑の香りが感じられるようだった。

忘れられないシーンは沢山ある。

例えば、コットが初めて井戸水を飲むシーン。まるで枯れかけた植物が新鮮な水を得て再び瑞々しさを取り戻すさまのようで、これからのキンセラ夫妻との日々を予感させて美しい。

それから、きっとコット自身も気付いていなかった“速く走ることのできる長い足”。作中繰り返される木漏れ日のなかを駆けるコットの姿は本来の9歳の少女らしい伸びやかさがあっていつまでも印象に残った。

 

過剰なハートフルストーリーになりすぎていないところも良い。

アイリンは亡くなった息子のものだと伝えずに部屋や洋服をコットに与えていたし、ショーンはコットを怒鳴って叱る。キンセラ夫妻とコットに向けられる外部からの心無い言葉や不躾な好奇心はとてもリアリティがあった。

キンセラ夫妻に引き取られることもなく実家へ戻るコット。コットの両親や家庭環境が劇的に改善されることは多分無いだろう。そんなそれぞれの弱さや愚かさ、不器用さ、不甲斐ない現実を正直に描きながらも、沈黙の時間のなかに確かに存在する優しさがじんわりと心に沁みていく。

 

邦題にはじまりの夏、とついている。このひと夏、コットに差し出されたやさしさやぬくもりが、きっと彼女の心にいつまでも灯る光となるだろうと信じたくなるラストシーン。

なんだかすごく綺麗な涙を流したような気がする鑑賞時間だった。

 

 

■■

 

映画の後友人から、お誕生日プレゼントをいただく。

手作りのローズアップルパイ。お針子であり、パティシエールである彼女のアップルパイは甘さ控えめでとっても美味しく、娘と一緒にぺろりと食べてしまった。

魔法使いの約束のクリスマスのイベント『雪降る街のプレゼント』が大好きで、ミスラのスノードームのエピソードをずっと繰り返し語っている私へ、雪降る街のプレゼントのスカーフも贈ってくれた。シックな色合いと、ストーリーにちなんだモチーフが可愛くて眺めているだけで幸せになる。

 

この日はバタバタでお互い映画で流した涙がまだ目尻に溜まった状態で別れたのだけれど、近いうちにまた会いたいなと思う。

伸びやかで朗らか、うたうように生きている彼女(まさに西の魔女だ)から、いつも元気をもらっている。