春休みの終わり、娘と久し振りにBunkamuraギャラリーへ行きました。
1920年代のパリ、ココ・シャネルと共に大戦後の時代を生きた画家マリー・ローランサンの展覧会。
《ローランサンとモード》展。
ローランサンは小さな頃から大好きな画家の一人!
モーヴがかったパステルカラーで描かれる優美な女性たち。彼女たちの表情はどこか夢の世界の人々のように捉えどころがなくて、ロマンティックな色使いと、どことなくひそやかな香りがする雰囲気が幼い私の心の琴線に触れました。
その後伝記等を読んで、夢を見、美しくエレガントなものを愛する心と、その自分の矜持を貫き通す強さの両方を持つ女性だったと知ってますます憧れの気持ちを深めたのも懐かしい思い出。
有名なシャネルとの仲違いのエピソードがありますが、これこそ、それぞれの女たちが互いの美への矜持を譲らずに貫いて生きていたことを表していると思うと、なんとなく励まされたり。
ローランサンの絵は所謂少女趣味と言われるような色彩だけれどとても洗練されていると感じるのは、彼女のそういう凛としたプライドが甘やかな色の後ろから、花の香りのように匂ってくるからかしら。
エレガントでロマンティック、甘くて夢見心地な世界。意地悪な人が時たま「女子供が好む」という言葉をつけたがるような世界。
でも私は誰がなんと言おうと、少女だった頃から、母親になった今まで、変わらずにその世界を愛しています。
ローランサンの絵はよく女性らしい優美さ、という文で紹介されていますよね。
でも、女性らしい、という言葉を使うことって今すごく難しい。
そこには女性はこうでなければならない、という古びた抑圧の背景もあるし、
更に言えば、そもそも女性というジェンダーの定義についてもしっかり考えて言葉を使わなきゃいけないなぁと思います。
私自身も、この言葉を褒め言葉として使われて、時と場合によっては心にしこりが残ります。
例えば、私の趣味は読書や手仕事、美しいものを観ること聴くこと、バレエにチェロ。
それらを口にすると、「趣味が女の子らしくていいね」「そういう子が恋人だったら最高だよね」という言葉をかけられたことがあります。
正直ね、毎回とても腹が立つの!
私がロマンティックでエレガントで夢のような世界を愛しているのは、誰かにとっての「理想の女の子」になるためでも、「みんなが思う女性らしい女性」に見られるわけでもない。
私が私のためにそれを求めて愛しているのに、と。
優美で、しとやかで、やわらかで、やさしい、そんなものを愛している女の子、女性=自立心が弱く、控えめで、そっと後ろに控えているような女の子、女性ではないのです。
私はむしろ我が強くて、プライドも高くて、譲れないところは絶対に譲らないというタイプ。
けれど愛している世界が甘やかなものというだけで、途端にそんな風にカテゴライズされてしまうこと。すごくきらい。
だからローランサンが好き。
彼女は信念とプライドを持って、自分のために自分の愛する世界を描き続けた強いひとだから。
今回シャネルとの関わりにも焦点を当てた企画。二人のエレガンスとロマンティシズムはカラーは違うけれど、やっぱり二人共自分自身のために自分自身の愛するものを愛して貫いた人だなぁなんて考えながら、ローランサンの絵画やバレエの舞台背景、シャネルのドレスなどを堪能したのでした。
併設のカフェで企画展の特別メニューをいただいて。
娘とどの絵が好きだったかなんて話ながらふと思い出したこと。
それは、オルコットの若草物語について。
周囲のもの読む娘、もの書く娘はみんな若草物語のジョーに憧れたりシンパシーを感じていたけれど、私はメグだった。
お花、手仕事、ローランサンの絵、レースやリボンの装飾のお洋服、いつか母親になったら、安心できるホームのようなお母さんになりたい…所謂レディに憧れて、そんなものを愛していた私は、やはり同じようなものを愛し同じような夢を持っていたメグにとっても親近感を感じていて。
でもだからといって良妻賢母の、王子様を待つか弱い女の子になりたいわけでもない。
私はメグの美への憧れと、それに見合う自分であろうとする心が大好きだった。
でも、ずっとそれがうまく説明できなくて、悲しい思いや疎外感を感じたことがありました。
本を愛し、ものを書くことに憧れる娘なのに、みんなが好きなジョーを愛せないのはなんだか落ちこぼれみたいな気がしたりね。
だから、グレタ・ガーウィグ監督の若草物語、「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」で、フェミニストであるエマ・ワトソンがメグを演じることがとてもとても嬉しかった。
エマがメグというキャラクターについて語った
「彼女のフェミニストとしてのありかたは、あの選択をすること。だって、あれこそがほんとうに、私にとってフェミニズムの本質だから。彼女の選択は、専業で母や妻をやりたいってこと」という言葉。
心にフェミニズムを持ちながら、ロマンティックでエレガントなレディに憧れていた私はとっても救われました。
私がこういう世界を愛するのも私のため。
シャネルが、ローランサンが、彼女たちの世界を愛するのも彼女たち自身のため。
私はこれからも誰がなんと言おうと、私が愛するものをプライドを持って愛していこう、なんて改めて思ったのでした。
風に揺れる儚げな花だって、それを支えるしなやかや茎と、地の中に深く強く張り巡らせた根があるんだから。
誰が為のエレガンス。誰が為のロマンティシズム。
それはぜんぶ、私のためのもの。