もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

地中に埋められた海に溺れに行く日の話。

今年はたくさん、ライブハウスに行っている。ライブハウス。音楽を聞く場所。見る場所。感じる場所。暴れる場所?どう表現したらいいのか分からない。

わたしは物心ついたときから今年の2月まで、音楽を聞きに行く場所はホール、或いは劇場と呼ばれる場所しか知らなかったから。

人生っておもしろいなと思うのは、少女時代あんなに切望したライブハウスで大好きなひとの音楽を聞くということが実現したのは、娘が当時のわたしに近い年齢になったいまで、でもきっといまが最適のときだったって思えるくらい楽しめているから。

不満や苛立ちや満たされなかった渇求が、適切なタイミングで人生の嗜好品をもっと深く味あわせてくれるスパイスになる。だから生きていくのっておもしろい。

 

ライブハウスの話がしたいんだった。

ライブハウスは大抵、防音のために地下にある。わたしがよく行くライブハウスは、渋谷の道玄坂から外れたよく分からない名もなき(本当は名前があるんだろうけど)路地とか、ラブホテルに囲まれた一角とか、そういう場所にある。

わたしはその道を、少女時代には完璧に揃えられなかった戦闘服を完全装備して歩く。

過剰なレース、リボン、気が遠くなるほどの数のボタン、自分ひとりじゃ締められないコルセット、踏まれたら小指くらいは簡単に折れそうな靴底のストラップシューズ。これはもちろん、開演前にローヒールに履き替える。

少女時代は、外に干さないでと母に怒鳴られた戦闘服を着ていても、この時代とこの街は気にもとめない。誰もわたしを見ないし、わたしも誰も見ない。ただチケットとドリンク代の小銭を握りしめて、妙に幅が狭かったり、でこぼこして歩きにくい階段のステップだけを見つめて歩く。前の人の切りっぱなし風のジレが床を引きずってるのを見つけて声をかけようかどうしようか迷っているうちに、自分の入場がまわってくる。

 

ライブハウスの話だ。

ライブハウスは、無機質で無関心な街の地下深くを切り取って埋められた海みたいだといつも思う。

地下だからなのか、そこに人が集まるからなのか、空気はいつもじっとりとあたたかいような、つめたいような湿度をまとっている。

深く暗い海は、やがて青く輝き出す。目がくらむほど眩いひかり。

音の渦潮がわたしの鼓膜をずぶ濡れにする。泡沫みたいな色をしたスモーク。深海魚のようなひかり。心臓まで揺らされる巨大な音の荒波があふれて、うねりとなって、わたしの細胞の隙間すら逃さず浸透していく。

音は渦潮。音は荒波。わたしは音楽の海で溺れる。拳をあげて、頭を回して、手のひらを振って、溺れないように藻掻けばもがくほど、音の中で苦しくなる。

ステージは溺れるわたしたちを見下ろす岩礁。そこに立つローレライは喘ぎ、嘔吐(えず)き、藻掻くわたしをもっと、もっとと煽るように、うっそりと喉を開いて歌い続ける。

わたしのレースのリボンも、隣のひとの漆黒のジレの裾も、前のひとの膨らんだバッスルも、ローレライの奏でる音にびっしょりと濡れて重くなっていく。沈んでいく。浮かんでいく。深海の中で。それはとても苦しくて、心地よい。

ローレライはなにかを創るように、あるいは壊すように歌い続ける。

 

 

 

じんわりとひそやかに震えるような鼓膜だけが、深海のひとときの唯一の名残り。

ライブ終わりのわたしの耳は真珠を隠した貝殻だ。

そっと手のひらで耳をふさいでみる。そうすると、遠くのほうから、潮騒が聞こえてやがて消える。さっきまでわたしを溺れさせていた海はすっかり静けさを取り戻して、何事もなかったように無機質な街の地中深くで沈黙している。まるで満潮だ。

歩きにくい階段を登る脚が、僅かにもつれる。長く水中にいたあとそうなるように。

最後のステップは、わざと大きな音をたてて、暴力的な靴底のストラップシューズで踏みつける。身体に、地上に戻ったことを確認させるため。

 

わたしは寄り道をせずに家に帰る。

歩いているうちに耳の中の真珠はこぼれ落ちてしまうし、音の波に濡れていた髪も服もすっかり乾いて、わたしの肺は呼吸を思い出す。

わたしはわたしの人生に帰っていく。

またつぎの干潮のときまで。