もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

よるのにっき。

私はずっと、音楽で舞台に立っていた。

ほんの少女の頃から、やがて病で歌えなくなるまで。

私の専攻は声楽で、舞台と一口に言ったけれど大きなコンサートホールから小さなカフェでのコンサート、ホスピスの談話室まで、その種類は様々。私はオペラに興味がなかったので合唱曲のソリストや、オーケストラとの演奏、友人の弦楽器奏者との演奏会は別として、舞台では基本的に独唱。伴奏のピアノ奏者は、私の後ろにいるので、ステージに上がって演奏を始めると、視界に入ることはない。

舞台に立つときは、たった独り。

もちろん、舞台袖にはスタッフ、コンクールの場合は次の演奏者がいるし、客席にお客さんが大勢座っている。

でも、独りなのだ。一人ではなくて、独り。

声楽なので、楽器も持たず、文字通り身一つで舞台に立って、声帯という小さな器官から旋律を奏でる。

よく、「緊張しないの?」「歌詞を忘れないの?」と聞かれることがあった。答えはどちらも「No.」。舞台に上がって、ブレスをしたその瞬間、私は独りになる。私の身体から、私という概念だけが抜け出るような心地といえばいいのか。あの感覚を言葉にすることは難しい。

緊張する、という精神も、歌詞を思い起こすという肉体の機能も、ずっとずっと遠く離れたところ。歌っているのは私だし、聞こえる声は紛れもなく私自身のものだけれど。

私という自我も、概念も越えたところに、昇っていくような気持ち。私の声は、私の声であって私のものではない。そんな気持ち。

今私の身体も、その内側の機能も、さらにその内側の心も、私ではなく、この音楽のためだけに存在している。歌えば歌うほど、私というものが遠くなる。

コンクールだったら、誰もが入賞を狙ってその日のために鍛錬を重ねて、舞台に上がる。私もそう。けれど舞台に立って、歌い始めたら、もう私の声は私のものではない。私の声で、上位入賞するために重ねてきた日々が薄くかすれて、ただ光の差す方へ、導かれる方へ、私の意志は関係なく、手を伸ばすように声帯を震わせる。

たった独りで、誰の目にも見えない分からない、私にしか感じることができない創造と破壊。音が生み出されるごとに、破壊され消滅していく自我。

あの感覚をいつかきちんと言葉にしてみたいと思って、苦労して書いたお話を今年本にした。

書きながら苦しくて、何度も泣いていた。

私は作家じゃないし、あくまで趣味の範囲で書いているのだから、なにを偉そうにと笑われてしまうかもしれないけれど。書き始めたことを後悔したことが何度もあった。

 

私は自分の夢を心のままに追ってその道に入ったわけではなくて、どちらかと言うとそうせざるを得なくてその道に入ったかたちだった。だから歌は誇りであると同時に、翳りであり枷だった。

ずっとずっと、お前には歌しかないと言われ続けていたから、歌を歌えなくなった時は鬱にもなった。

まるで歌と入れ替わるようなタイミングで子供が生まれて、それから少しずつ、歌っていた頃の私を知らない友達ができた。

ずっと歌がなければろくでなしと言われていたから、歌っていない私を好きだと言ってくれる人たちがいることにどんなに慰められたか分からない。

そうやって、ゆっくりと歌っていた私と決別していって。これまで才能がないのにやってる意味がないと言われていたこと─バレエや楽器や絵を、趣味で楽しむことが赦される日々に喜んで。

そんな日々の中で、歌っていた私をとても穏やかに迎えに行けると思って書き始めたお話だった。

でも書き始めたら、あの感覚─舞台に立った時の恐ろしいほど魅惑的な孤独への深い深い渇求がまだまだ私の中に残っていることに気付かされた。

まるで麻薬だ。もう一度それを体験しようと思ったら、心身共に凄まじい負荷がかかる。けれどもあの感覚を一度でも知ってしまったら、否知っているからこそ。いつまでも、仄暗く憧れ続ける。

だから私は泣きながら書いた。どう足掻いても、どんなに求めても、もうあの時と同じ質の感覚を音楽を奏でることで生み出すことはできないから。囚われてしまって、失ってしまって、それを求めて彷徨うグールのように、ただひたすら書いた。

実は書き終えてから暫く、完全なる鬱期に入ってしまったくらい、私にとってパンドラの箱をあけるような作業だったと分かった。

 

でも書き終えた時、私の求めていた感覚とは違う、新たなものを感じた。ありきたりな言い方をすれば、昇華、になるのだろうか。

私のパンドラの箱の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていたものをひとつひとつほぐして、それを新たに組み立てて、フィクションに創り直す作業を終えると、書いている間心を揺さぶり続けた悲しさ、悔しさ、怒り、欲求、それらを硝子一枚隔てたような距離感で眺められるようになっていた。

 

私は物語が好きだ。物語は新たな扉であり、新たな友人であり、新たな世界である。けれど、時に寄り添い、時に導き、時に慰めてくれる物語は、私に影響を与えることはあっても決して私の影響を受けない。凛然と、物語としてそこに在り続ける。だから私は安心して、心の赴く時に心のままに読みたい物語のページを開く。

多分私は、私の心の中のとてもプライベートな部分に癒着していた感情たちを物語のパーツにすることで、適切な距離を取ることができるようになったのだと思う。感情は私から溢れ出たものだけれど、物語になってしまったら、もう私の影響は受けないから。

 

そしてもう一つ。

たかが趣味のその物語を書いているとき、ほんの一瞬、舞台でのあの感覚に似たものを感じた瞬間があったから。

さっきは昇華と書いたけれど、結局のところ、その透徹した一瞬の麻薬めいたものにまだまだ囚われ続けているのかも知れない。

でも、これまでの私だったら、プロでもない人がそんなことを感じるなんて厚かましいと思っていた筈だから。恍惚とした光に囚われ求めて彷徨うグールから、光の方に誘われて飛び回る虫、くらいまでステップアップしているんだろうと思うようにしている。

長々とこの文章を書きながら、結局私は何が書きたくてこの記事を書き始めたのか分からなくなってきているけれど。

物語や言葉が好きだし、なにかを創り出すことが好き。それの才能がなくても、やっていいんだ、楽しんでいいんだということを分かっていたようで分かっていなかったことに気付けたのはやっぱり創り出すことによってだったから、これからは楽しみながら囚われていこうと呑気に思っている。というお話。