この夏から始めたこと。プールで泳ぐこと。
家から自転車で10分程度のところにある区営のプールの存在は知っていたものの、利用するのはこの夏がはじめて。
私は本当にスポーツというものが苦手で、身体を動かすことは自宅での筋トレとバレエのレッスンしかやっていないし、昔から体育の授業は大きらい!
小学生のとき、妹二人はリレーの選手に選ばれるようなタイプだったけれど、私は体育の時間も運動会も存在を消すタイプだった。中学校はそもそも殆ど行っていないし、高校は音大附属高だったので体育のコマ数が少なく、その少ない授業すらなんだかんだ理由をつけて常に見学。
だって、ピーッと耳をつんざくようなホイッスルを鳴らされて、〇〇の隊形に並べ!休め!なーんて命令されるのはうんざり。部活やクラブで球技をしている子たちの本気への圧力も鬱陶しい。
みんなで力を合わせて!チームワーク!を押し付けられると寒気がする。
水泳の授業はさらに、思春期を迎えた彼ら彼女らの青臭く生臭い視線や言葉、それに嫌がる素振りを見せながらも過剰に意識している瞳。
それらが制汗剤やチープな香水の香りと混ざってべったりとまとわりついてくるような空気を潔癖気味の私は本当に嫌悪していた。
これは今でもそうで、娘の小学校での催しを見学に行くとき、かわいいかわいい我が子がそんなふうに命令されていると「なんであなたが私の子どもに偉そうに笛鳴らして怒鳴るわけ?」と不愉快になってしまう。自分でも幼稚な怒りであると理性では理解しているけれど、私の感性は絶対にこの慣習を受容しようとしないのだ。
話がプールからかなり逸れてしまったけれど、つまりスポーツへの苦手・嫌悪意識が強い私は、レジャー施設のプールで浮き輪に乗って揺蕩うことはあれど、キャップを被り、ゴーグルを装着した顔面をしっかり水につけて泳ぐのは、小学生のとき以来していなかったということ。実に24年ぶりの水泳。
きっかけは、娘だった。
以前別の場所で、スポーツと同じくらい縁のなかった絵を突然描き始めたのは娘があまりにもたのしそうに、自由気ままにキャンバスやスケッチブックに色形を付けていくのを見てふと「私もやってみようかな」と思ったのがきっかけだったと書いたが水泳もそう。
娘は実は泳げない。それでも半袖になる頃になると友人たちとそれはもう頻繁にプールに遊びに行く。区営プールなので泳げなくても遊べるような遊具はもちろん無い。潜ったり、浮いたりするだけなのに、楽しかったーと帰って来る。
ポニーテールを湿らせて、日に日に焼けていくしなやかな手足で自転車を漕いで帰宅する娘の顔がなんとも清々しく軽やかなので、ふと「私もやってみようかな」と思ったのである。
「ママも泳ぎに行きたいかも」と言うと娘はとても喜んで、チケットの買い方、ロッカーの使い方、プールのルールなどを教えてくれて、毎日のように「いつ行く?」と聞かれるので私は慌ててお気に入りの月の満ち欠けの肌への刺繍を秘めるためのラッシュガードを注文し、蝉の鳴き声が聞こえ始める頃、ついに区営プールへと繰り出した。
24年ぶりの水泳、一言で表すなら、最高じゃん!だった。
最初は泳げたはずの25mも泳げず、記憶している泳ぐ自分の身体と現在の自分の身体の重さの違いに愕然としたし(その記憶は小学生のときのものなのだからそれはそうだろう)、なんとか25m泳ぎきったあとのあのものすごい息切れに驚愕していたのだけれど。
天井のガラスドームの向こうに八月の青空と木々の緑が覗いていて、ガラスから差し込む陽光が水中できらきらと揺らめく。
少しずつ泳ぎの感覚を思い出した足で蹴る水の心地よい抵抗感。疲れたら立てば良いし、浮いてみようが泳いでみようが歩いてみようが、ルールを破らない限りはピーッと不快なホイッスルを鳴らされて命令されることもない。
大人も子どもも、あるひとは静かに、あるひとははしゃぎ声を挙げながら、各々気ままに水の中での時間を過ごしている。
私は思わず娘に抱きついて「さいこー!」と叫んでしまった。
なんて自由なんだろう!そうか、誰かに理不尽に強要されること、晒されることでしかなかった水泳も、私はもう自分で自由に選択して楽しめるんだ!なんて完璧な夏なんだろう!!という当たり前のようなことに気づいてすごくすごく嬉しくなった。
爪先で壁を蹴って水中で伸びる。半透明の青の中で、世界の音が消える。息継ぎをすると世界が戻り、また世界が沈む。時おり、私の後ろを追いかける娘に足首をくすぐられる。
時間がきたら、着替えて、濡れた髪にタオルを巻きながら二人でセブンティーンアイスを齧り、帰り道の自転車ですこしだけ日が落ちるのが早くなった街の風を切って走る。清々しく、自由で、完璧な夏。
すっかり楽しくて、時間があるときはすぐ泳ぎに行くような日々を過ごしている。
今日も仕事が予定より早く終わったので娘と2人夕方から自転車を走らせてまた泳いできた。
今日は、娘にまたひとつ素敵なことを教えてもらう。
「勢いをつけてプールの床にお尻をつけるように沈んで(鼻をつまむのを忘れずに!)、上を見てみて!」と言われ、やってみる。私たちに向けてられている透明な水面の反対側がそこに広がっていた。
そんなの当たり前、と思われるかもしれない。
でも私は感動してしまったのだ。透明の反対側を見れるなんて!と。
詩人の立原道造の有名な言葉に《五月の風をゼリーにして 持ってきてください》というものがあるが、水底から見上げた水面の反対側は、八月の空をゼリーにしたような美しさだった。
私たちがずっと「きれい!きれい!」と言いながら沈むものだから、近くにいた小学生の何人かも私たちの真似をして沈んで見上げて浮いていく、をしたりして、ちょっと不思議な光景だったかもしれない。
もっとじっくり見上げたいのに、その光景を捉えたら数秒で身体は勝手に浮いてしまう。手が届きそうで届かない。その儚さもまた楽しくて。
今日は後半ずっとそんなふうに潜っていたので、これを書いている今も抜けきれなかった水が耳の中で鳴っている。
八月の空のゼリーを耳の中に秘めながら眠ったら、素敵な夢が見れるかもしれない。