明けましておめでとうございます。 新年早々の天災。そして事故。どうか不安な夜が早く明けますように。助けを必要としているひとが助けられますように。 犠牲になってしまった方々の御冥福をお祈りします。
心を揺さぶられる一年の始まりになってしまったけれど、私はできるだけ穏やかに、過ごしていこうと思っています。 今日は新年の日記を徒然と。
1月1日。 風は冷たく強いけれど、雲ひとつない快晴。すきっとした青空はマリア様のこころ。(典礼聖歌#407)
新年は毎年、生まれ育った街にある教会の御ミサへ。神の母マリアの祝日、そして世界平和の日。
クリスマスミサに比べると、人は少ないけれど。ひとりひとりの静かな祈りが何層にも重なったような、独特の質量の空気が漂う聖堂。
今年は諸事情で娘はお留守番、私一人で参列しました。
聖体拝領のおり、どうしてだか分からないけれど、涙がこぼれてしまう。かなしいわけでもないのに。泣きたいほど切実な祈りがあるわけでもないのに。
乳香の香りがかすかにする腕を差し出されたとき、たまらなくなってしまって。
たぶんこれが、信仰というものなのかもしれない。
私はカトリックだけれど、カトリック教会の教え全てに賛同しているわけではないのです。
カトリック教会の歴史や、教えの中には到底頷けない事柄だってある。私は全ての差別、迫害、基本的人権の侵害に反対します。
それでも洗礼を受けている。それは、幼い頃からカトリック教会やキリスト教的文化が非常に身近なところで生きていたからというのもあるけれど。自分の中でのカトリックへの矛盾、疑問を根本解決することはこれまでも、これからもきっとないのに、どうして洗礼を受けたのか。
これまでそれを、きちんと言葉にすることができませんでした。
以前、交流のあった創作する方に信仰に関して質問されたことがあります。
『私には信仰がわからない。私なりにカトリックの歴史を勉強したけれど、惨い歴史や教えを知ってもなお信仰するのは何故なのか純粋に分からないから教えてほしい。』
貶すわけでも煽るわけでもない質問でした。
けれど、その人は私が初対面の方もいる場所で、私の信仰というパーソナルなものをアウティングし、『カトリック信者のキャラクターの創作をしたいから。』という理由でとてもプライベートな部分に踏み込む質問をしてきたことに私は動揺して、憤りました。
その人のデリカシーの無さにひと通り憤ったあとに、私の心に浮かんだのは、
確かに、私の信仰とはなんだろうということ。
先に書いたように全ての教えに頷くこともできず、熱心に聖書を読んだり、毎週末ミサに通うわけでもない。(きちんとミサに預かるのはクリスマスと新年くらいといういい加減さ)
それでも、信仰をプライベートな領域だと感じるということは、私の中に私なりの信仰があって、けれどそれは非常にぼんやりとしているもので、私自身でもその輪郭をしっかり把握していないのは何故だろうと。
でも、元旦のミサで涙がこぼれたとき、ああこれが私の信仰かしら、と思ったのです。
それを言葉にするとしたら、私にとって仰ぐものでも、従うものでもなく。ふと心が自分の無意識下で丸裸になったときに、そこに差し込む光のあたたかさを感じ、それによって赦されたように感じること。そうしてまた自意識を取り戻したときに、己の心と信念を信じて歩みだすこと。
これは、敬虔な信者からすると冒涜かもしれません。でもそれが私のなかでの信仰で、私と信仰との適切な距離なんだと。すとんと、胸に落ちるように気付きました。
これは、きっとあの質問をしてきた方は納得しない答えなんだろうなぁなんて考えたらなんとなく意地悪く愉快な気持ちになってしまったので、やはり私は罰当たりなのかもしれませんね。
でもそれが私なのです。
神に栄光、地には平和、私の心はいつも自由。と出鱈目な讃美を唱えます。
去年の日記を読んでいたら、やっぱり新年のミサで同じようなことを考えていたようです。
→https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/01/01/160204
なんだかこのときにもう答えを出している気がして笑ってしまいました。
帰宅してからはチェロを練習したり、本を読んだり、つくってみようと思っていたレシピでランチを作り、夜はお節料理を食べ。
不安なニュースを一度消して、オーストリアラジオにてウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聴きました。
警戒しつつ、心の安息をとることを不謹慎だとは思いません。
ラジオから聴こえるドイツ語、そしてティーレマンの奏でる重厚で華々しいワルツは、不安に揺れる心を落ち着かせてくれました。
音楽をはじめ、美しいものに救われ、励まされ、赦され、慰められる。これも私の信仰のひとつ。
1月2日
今日は少し久しぶりの新国立劇場バレエ公演へ。
行きの電車、榛色のコートに深紅のリボン、マフ、ストラップシューズを履いた異国の少女に、かつて小さなクララだった娘をみてほんの少しだけ胸が切なくなったり。
母親というものは、とっても難しくて。
娘の意思や決断や心を尊重したい気持ちと、どうしても自分の想いを投影しようとしてしまう気持ちがいつだって危ういバランスで存在しているからため息をついてしまいます。
バレエと決別した娘に、さみしさを感じてしまうのは私のエゴ。この気持ちは、決して娘に悟らせてはいけないけれど、秘密の箱庭のようなこの場所にそっと置いていくことを許してね。
なんてしんみりしたけれど、オペラパレスのあたたかなクリスマスの世界を目にすれば、あっという間に赤い緞帳の向こうに広がる物語へ胸が弾んで。
電車の異国の少女と同じくらい純粋に、わくわくそわそわと開幕を待ちました。
久しぶりのくるみ割り人形は、それはもう、素晴らしくて。
このチケット取っておいて良かったと、カーテンコールで手が痛くなるくらい拍手をしながら思いました。
私は特に、雪片のワルツが大好き。
コロナ禍の公演中はしばらく見れなかったバルコニーの合唱隊。歌声が雪片のごとく空から降り注ぎ、舞台はスノードームの世界のようにきらめいて、雪の精の一糸乱れぬコールドの眩いことといったら…!
何度も観てるはずなのに、やっぱり何度だって泣いてしまう。嘘みたいな美しさに。
そして大好きな奥村&池田ペア。
この二人のくるみは絵本や、少女漫画の王子さまと妖精のようでうっとりとしてしまいます。
これも毎回のことだけれど、二幕のPDDあたりから『終わらないで…』と夢から醒めるのが惜しくて、さみしくて、また泣いてしまうのです。
どこまでも幸福で、どこまでも美しい夢の世界。
これを書きながらも思い出しては、充足のため息をもらしてしまいます。
やっぱり美しいものが大好き。
目にも、耳にも、心にも、たくさんたくさん美しいものを触れさせていきたい。
美しいものへの憧れのきもちが、私の心を強くしてくれて、私の背筋を伸ばしてくれて、そしてときたま、繭のようにかくまってくれる。
今年もできるかぎり、そんな世界に触れていたいなと思います。
なんだか沢山寄り道をしているような文章になってしまったけれど。きっと今年もこんなふうにゆるりと綴っていくので、またお付き合いいただけたら嬉しいです。
月齢21.1の深夜の日記でした。