もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

やわらかな寂しさについて

昨日別の場所に書いたもの。

読んでいたのは、梨木香歩さんの「裏庭」。

 

 

 

 

体調を崩してる。ひどい咳から始まって、日中は薬が効いているからリモートで仕事をこなしていられるけれど、夕方くらいから熱が上がってきて怠い。

 

10歳の娘は、私の娘とは思えないほど優しくて気が利くので、せっせと看病してくれるのだけれど。

私が別室で寝るというと寂しそうな赤ちゃんの顔をする。

それが可愛くていとしい。

 

心配と寂しさが混ざった顔で寝る支度をした娘とエアハグとエアキスをして。

居間に敷いた布団の上でぼんやりしながらこれを書いている。

たった一人で(ほんの数歩歩いた先にある子供部屋に娘が眠ってるけど)、ほてった身体を持て余しながらじっとしていると、なんだか私自身も子供時代のやわらかな寂しさが蘇ってくるような気がする。

 

─子供時代のやわらかな寂しさ。

 

私は歳の近い妹がいるからあまり家の中で一人きりになることはなかったけれど、それこそ熱を出したときは一人別室に隔離された。

熱くて寒くて、氷枕の固い感触や胸に塗った咳止めジェルの匂いに包まれて、ほの暗いベッドに一人でいるとき。

廊下の先の居間ではまだみんな起きていて、かすかな電気の色とかテレビやそれを見ている家族の話し声とかがちょっと遠くのほうから聞こえる。

 

それから、私以外の家族が出掛けているときの夕方とか。

夕ご飯の時間にはもちろん帰ってくるのだけれど、一人で過ごすには広すぎる家の中で、今この場所にはいない人たちの気配がたっぷり詰まったものに囲まれて、本を読んで待っているあの時間。

いつもはすり寄ってくる飼い猫も、その時は私が見つけられる場所にはいなくて。

ゆっくり色を変えながら沈んでいく陽の光が、唯一動いているもののように感じる。

 

そういう、寂しさ。

それをやわらかな寂しさ、と書いたのは。子供時代っていうのはやっぱり、絶対的に守られていたから。

私の母親は、あまり良い母親ではなかったし、きっと今の時代なら所謂毒親、にあたるような母親だったのだけれど。

それでも、子供の頃の私には母はやはり母で、だからこその様々な問題はあったのだけどそれは置いておいて。

きっと守られているはず、と信じている場所だったから、

そんなふうな場所で感じる寂しさ。それがやわらかな寂しさ。

 

突然どうしてこんな話をかいているのかと言うと。熱がどうも身体にこもっていて眠れないので本を読んでいて。

ある女の子が近所の洋館の中に秘められた裏庭に入り、冒険の旅に出るお話。

私はこういう、寂しさを抱えた子供が、不思議な冒険や魔法の旅をして孤独の魂を慰めていくお話が大好き。

けどふと、気付いた。

彼らが、孤独と寂しさを燻らせた現実から夢と魔法と冒険に出て、それを終わらせて帰ってきたとき。

ほとんど例外なく、大人になっていく。

 

物語としてとても好きだし、私はそんなふうに子供時代を終わらせて、悲しみも諦めも知って大人になっていくことってとても魅力的だと思っていたし思っている。

けど、なんとなく今夜はそれが、とっても寂しく感じてしまって。

 

布団にくるまって、子供時代のやわらかな寂しさを懐かしんでいた私は孤独に寄り添う物語と、それの終わりの形について考えてしまった、というわけ。

 

それは、もう追体験でしかやわらかな寂しさを思い起こせない私へのかなしさなのかもしれないし。

あの頃慰めてくれた物語の、友達のような彼らも大人になっていくのだということに改めて気付いてしまったことへのかなしさなのかもしれないし。

いつか娘も、そうやって大人になっていくのだということへのかなしさなのかもしれないし。

 

そしてこれはやわらかな寂しさじゃなくて、ほんの少し乾いた、でも決して不快ではない寂しさで。

それを不快に感じないということは、私はしっかり大人になってしまっているのだなぁと思ったりして。

 

こうやって人生の中でいろんな感触の寂しさを知っていくのだなと、おばあちゃんみたいな気持ちで文字を打ち込んでいる。

 

まだまだ眠気は訪れそうにないし、もう少しだけ、大人になりゆく少女の冒険の旅が描かれたページをめくるとしましょ。

だって寂しいときには、物語が寄り添ってくれたから。今までも多分これからも。寂しさの感触が変わっても。