一年のまとめを書いたあとだけど、どうしても言葉にしておきたいことがあるのでまた画面に向かっている。
私は、ソシャゲで二次創作をしている。書いているのは小説。ネームドキャラ×プレイヤーキャラ(性別は女性)という所謂夢小説だ。
私の書くお話は元々、恋愛模様を描くのが主軸の夢小説からはすこし逸脱していて、読むひとを選ぶ作品であるのは重々承知しているし、そもそもあまり多くの人に読んでほしいという気持ちがない。これは、僻みだと捉えられてしまうかもしれないけれど本心で。
お話を書くことは、心の柔らかなところを使っていく作業だと思っている。
動いているのはキャラクターで、二次創作なので原作をお借りしているのは大前提だけれど、そこに描く世界、空気、気持ち、テーマ、それらはやはり書き手である私がこれまで積み重ねてきたものから滲み出てくるものだから。
だからこそ、ある意味とってもプライベートで。
でも、100%プライベートなものだったら表には出さない。けれど私は個人サイトやXで発表している。
それは、私のお話や言葉を心から好きだと言ってくれて大切にしてくれるひととの出逢いがあるから。
だから私はpixivでたくさんいいねを貰うより、タグをもらうより、そんなひとからの「好き」という一言が本当に嬉しい。
そんな自意識と他意識のバランスの中で、細々と書いて細々と表に出して早2年。
今年はたくさんのお話を書いて初めて本のかたちにすることもした。
素晴らしいお話を書くひととの出逢い、交流は私にとって、私の創作にとって、本当に糧になるものだった。
無我夢中で書いていた一年目に比べると、書きながら自分が書いていきたい物語の本質を見極めていったような日々だったと思う。
それについてはXの創作垢で綴ったのでここには書かないけれど。
ひとつだけ、二次創作を初めてずっと危ういなと思っていることがある。
それは、言葉のもつ力について。
二次創作というのは公式が提示した二次創作におけるルール、それから個人個人のモラルに任せられているものだけれど。
言葉というものの責任をもう少し各々が考えられたらいいのにという気持ちが日々強くなる一年でもあった。
二次創作の発表場所としてやはり一番大きいのはpixivだろうか。
私もずっとpixivを利用していたけれど、なんだか空気と水が合わない場所で暮らしているような心地だった。
ランキング上位、或いはこれは良い〇〇(CP名)として流れてくる作品における性的合意、身体の扱い、妊娠出産の扱い、未成年や子供の扱い、パワーバランス、ジェンダー観において、どうしてももやもやとしてしまう。
私の作品をいいね、ブクマしてくださった閲覧専用垢さんのアカウントを覗きにいくとブクマ一覧にそんな作品ばかりが出ていて、最終的にいいねされるのが嫌だった。顔も名前も知らない人だけれど、嫌になってしまった。Xでもpixivでも。
もちろん私も、所謂インモラルな作品やR指定の作品を書いている。
けれど例えば、
・徹底的に二人だけの世界を構築し、彼らの行いによって傷つく人がいない
・彼らのパワーバランスが対等であること
をモットーにしている。
とはいえこれは私のモラルであり、見る人が変われば許せない作品になり得ることも理解している。
それでも、立ち止まって考え、自分の矜持を説明し、それに対して責任を持つということはとても大切なことなんじゃないかと思う。
表現の自由はあるべき。
けれど二次創作だから、フィクションだから、を印籠にするのはあまりにも無責任ではないかと。
極悪非道な事件を起こした犯人が美少女アニメを愛好していたという報道するメディアに、私たちオタクは声をあげる。アニメに何も罪はないと。私もそう思う。
アダルトビデオ、ポルノによって擦り込まれた『いやよいやよも好きのうち』『濡れているから感じている』(敢えて伏せずにこういう言葉を書かせてください)を本気で信じているひとに、私たちは声をあげる。それはフィクションだと。私もそう思う。
じゃあどうして私は二次創作において、もっと作り手側が慎重に扱っていくべきだと思うのか。
ずっとずっと考えていた。
例えばネットミームの多くには、政治的思想や人種的、性的差別の意味が本来含まれている単語が多くある。
“大人”たちは本来の意味を知りながら、それを少し捻ったユーモアとして使う。
けれど、それに触れる子どもたちは?
本来の意味を知らず、捻ったユーモアとして提示された意味そのまま受け取り、素直に使っていく。
私には小学生の娘がいるけれど、小学生たちが『メンヘラ』『戦犯』という言葉を無邪気に使うのを見て驚いたことがある。
彼らは、YouTube等からその言葉を知り、悪意なく使っている。
ではこれはYouTuberの責任問題かというとそうではないと思う。なぜなら子どもたちの周りには私が、私達がいるから。
気付いたときに立ち止まり、話を聞き、意味を説く大人がいるから。
けれど、二次創作作品というのはどうだろう。
二次創作を見る人、読む人は基本的にひっそりと隠れて、のことが多いのではないだろうか。
もちろんオタク仲間同士あけすけに語り合うひとたちもいるけれど、多くの閲覧専用垢が初期アイコンや無個性アイコンで、年齢表記のみ。そのアカウント主のパーソナルなものが何一つわからないというところからも、やはり二次創作、特に年齢指定作品については秘めて嗜好するひとが多数だと思う。
ネットにおける年齢指定は、あくまで自己申告だ。私たち創作者は閲覧者の申告を信じるしかない。正直、私自身も未成年で年齢指定作品を読んでいた。
つまり、多くの場合“子ども”たちが目にする可能性があること。そしてそこで擦り込まれたなにかに気づく“大人”たちがいないこと、これはとても危ういと思っている。
私が主に創作しているジャンルのCPでは、年齢指定作品において
・合意のない性行為からの妊娠逃亡
・契約的結婚
・社会的弱者であるヒロインに社会的強者であるネームドキャラが権力を盾に関係を結ぶ(それは後にハッピーエンドとなるものも多数あるけれど)がよく見られる。
みんなそのキャラが好きで書いて、描いて、読んでいる。それは分かる。
けれど、当たり前のように学生同士が妊娠したり、墮胎を迫ったり、それによって生まれた子供が大人のように物分りがよく、彼らのハッピーエンドにむけてお膳立てをするような立ち振舞いをしていたり……とにかくそういうものが“二次創作ではよくあること”、“オタクの性癖”、“萌え”として当たり前に流れてきて当たり前にそれを目にしていたら
自分の身体を守ることや自分の身体の権利は誰にあるか(もちろん自分自身以外ない)、ジェンダーバランス、性的合意の認識、そういったものへの歪んだ認知が刷り込まれてしまうのではないかと私はすこし怖い。
じゃあどうしていったらいいのか、という答えは出ないけれど。
こうやって、私はこう危惧しているのだという声をあげること。
それから、私自身は私自身の言葉に覚悟と責任を持ち、二次創作だから、を言い訳にしないでいることを徹底する。
このふたつは、改めて、しっかりと軸としておきたいと思っている。
最後に私の大好きな『魔法使いの約束』から、北のミスラの言葉を引用したい。
《─俺が自由に生きるために、 満身創痍になる覚悟をして生きています。》
自由に創作したいなら、言葉に対する責任と覚悟を持つべき。それが私の矜持だと改めて。