Xでつぶやいたことについて、もう少しだけ書きたくなったのでここに綴ってみる。
私が音楽の道を歩んでいたときの話。
私の専攻は声楽だった。声楽、つまり歌。
歌の演奏というのは、なんというか、とても、オープン。
当たり前のことだけれど、口をひらき、声帯をひらき、横隔膜をひらき、時には目も鼻の穴も大きくひらいて、声という楽器を奏でる。
そして、基本的には、舞台の上で常に客席のほうを向いている。オペラやミュージカル等の演劇要素が入ったもののように例外はあるけども。殆どの場合、自分の身体の表面を舞台から客席に向かってさらけ出している。
私はもちろん、歌うのが好きだったし、きっと向いていたから音楽学校に進学し、演奏する每日を選んでいたわけだけれど。実はこっそり、楽器科に憧れることがあった。
例えば。
ピアノ奏者と、艶々と輝くモノトーンの鍵盤が向きあった空間。しなやかで強靭な指先に触れられるのを待っているようなピアノと、すがるように或いは愛するように身体を寄せる奏者。
頬ずりをするみたいにぴったりと肌と肌を寄せ合うヴァイオリンと奏者。なめらかな首のくぼみにできてしまう胼胝は、特別な鍵穴のようにみえる。
ああ、それから、楽器ケースにも。赤い布張りの秘密めいた箱庭みたいで憧れていた。
楽器と奏者の間だけにひそやかにうまれるあの密な空間がとてもうらやましかった。
それに、奏者が手に取らなければ楽器はただの物体で、楽器を持たなければ奏者はただの個体であるというところも良い。
独立した存在同士が手に取り合って初めて生まれる旋律。とてもロマンティックに思っていた。
もちろん、歌と同様弾き手の心身の状態、或いは環境の状態が楽器に作用することは分かっている。
けれども私は、歌という楽器は、良くも悪くも私という個人と癒着している。そんな感覚が強くて、楽器と奏者のあの密度の高い、それでいて決して交わりすぎないような独特の空間にずっと憧憬の眼差しを向けていたように思う。
私は二年ほど前にずっと習いたかったチェロを始めた。チェロは一番好きな楽器だ。
音色も、姿形も、どれをとっても私の理想の美しさを持っている。
ところがいざ始めてみると、この楽器を愛してるのか憎んでいるのか分からなくなるときがあるくらい私が想像していた以上に難しい。ほんとうに難儀で手のかかるかわいい恋人のよう。
そんなチェロを、後ろから抱きしめるように構える時。
あの秘密の空間を手に入れたような気がして私は高揚する。
もちろん友人たちやクラスメイトのようにその空間に相応しい音なんか出せるわけもなく、耳障りに掠れたり、不安になるような音程の音ばかりなことには目を(耳を)ふさぐとして。
そういえば、この記事を書きながら思い出したエピソードがある。
学生時代とても仲良くしていたヴァイオリン科の女の子がいた。
彼女は白いマフラーの似合う楚々とした佇まいとやわらかな声の持ち主で、そしてその見た目からは意外なほど心が強く凛としたひとだった。
私は彼女がとても好きで、卒業してからも一緒に演奏会をしたり、遊びに行ったりしていた。
彼女のヴァイオリンケースは、楽器の形に添った三角型。楽譜を沢山持ち歩く音楽学校生には珍しい選択だったと思う。
あるとき、彼女がケースにヴァイオリンをしまう姿に目を奪われた。
蓋をあけると、まずケースに張られた光沢のある深い赤の布地が見える。そして、不思議な民族模様の大判のスカーフ。彼女はそれをまるで花びらを摘むようにやさしく指先でひらき、そこにそっと楽器を寝かせた。
私が見つめていることに気づいた彼女は、春風みたいな声でケースの中を指差しながらひとつひとつの物語を教えてくれた。
楽器を包むスカーフは彼女と彼女のお母さまが愛するハンガリーで買ったもの。
扉の内側、深赤の布張りのポケットの中に入っているのは洗礼名の名付け親となってくれたシスターからもらったホーリーカード。
いつどこで連れて帰ってきたか分からないくらい長い時間一緒にいるくたびれた小さなクマのぬいぐるみキーホルダー。
どの品物もいつくしむように取り出して、語り、そしてまた丁寧にしまう。
箱庭のようなケースの中から漏れてくる、彼女と楽器二人きりの空間の空気の感触を、私はとても厳かな気持ちで見て、聞いて、感じていたように思う。
そのしばらくあと、私からのクリスマスの贈り物の小さなロザリオがその空間に受け入れられたときは、とても幸せだった。
そんな彼女の首筋の胼胝も、やはり秘密めいた鍵穴のようで、私の贈ったものがそこに存在していても私は鍵を持っていないことは、不思議な安息を胸に呼び起こした。
その空間が誰にも、私にも、侵されないことが、私をとても安心させた。
さて。
私のチェロケースにはまだ松脂と弓と楽譜しか入っていない。
いつか、あの神聖で厳かな空気の欠片になるような特別なものたちを忍ばせる日が来るのだろうか。その時はもう少し、滑らかに恋人に触れ、やわらかな声を出させるようになっていたいと思う。