もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

メランコリックな雨の日に

 

1月21日、雨の日曜日。

とても久しぶりに『中国の植物学者の娘たち』を観る。

初めて観たのは十年以上前。娘たちと同様に同性の恋人だったひとと泣きじゃくって、手を繋いで眠ったことを覚えている。

孤児院で育ったミンは、植物学者チェンの下で実習するため湖の孤島にある植物園で過ごすことに。彼女はそこでチェンの娘アンと出会い、次第に心を通わせ、やがて二人は愛し合うようになるが…というあらすじ。

同性愛が病気だと断罪される時代、少女二人の結末は苦しく重たい余韻を残すけれど、この映画を好きな友人たちとよく話すのは、一番泣いてしまうのはアンとミンが、手を取り笑い合うシーンだということ。あんまりにも愛おしくて、涙が止まらなくなる。

 

久しぶりに見返すと、少しばかり不自然に官能的すぎるのでは…という節があったり、数あるクイア映画で見られるクイアたちの悲劇や死がドラマとして描かれすぎることへの懸念がよぎったりはするものの、それでもやっぱり好きだなあと思う。

隔絶された植物園で彼女自身が植物のようだったアン。ミンと出逢って生き生きとしていく様は美しく、水と緑に満ち、悠久の時が流れるような植物園というロケーションでの二人のひとときは、なにか神話めいた、桃源郷の夢のよう。

初めて観たときはひたすらアンとミンに心を寄せて、アンの兄や父には嫌悪感しか抱かなかった。

けれど今日は、この悲劇の中に存在する社会の抑圧、ヒロインたちを断罪する兄と父もその抑圧の被害者なのでは、と彼らへの憐憫のような気持ちを抱いた。

メロドラマめいたストーリー展開。けれどその中にある政治性、社会性は現実。美しく、痛切な作品。

 

女の子二人もの、(百合、という単語に苦手意識があるので私はこの言い方をする)小説も映画も好きで色々観ている方だと思う。

この映画のように美しく悲しい物語ももちろん好きだけれど、例えば花とアリスや茨の城、小さな悪の華t.A.T.uのMVのような、共犯者として世界を駆け抜けていってしまう話も好き。

とはいえ、その手の作品は悲劇や死の代わりに、倫理観の崩壊が欠かせないようなので、そのあたりも溢れすぎるのは危ういのかなぁなんて考える。まだ上手く言葉にすることが出来ないのだけれど、クイアのコンテンツとしての消費に繋がるようなことは避けたいね、と日々思っている。