もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

本についてのあれこれ

2月4日

 

Xで相互さんたちと恩田陸さんの『ライオンハート』についてお話する。恩田陸さんを好きなひとは周りに沢山いるけれど、『ライオンハート』が好きというひとにはあまり出逢って来なかったからとても嬉しい。

時を越えて、出逢った瞬間に互いのことを思い出して、けれど決して結ばれることのない運命の二人。

“会った瞬間に、世界が金色に弾ける”…その金色はどんなに美しいのだろうと想いを馳せながら何度も読み返している作品。

恋愛小説というものをあまり読んできていない私だけれど、この作品は“私の好きな恋愛小説”の一位に君臨している。絵画や音楽が印象的に物語のキーとして使われているところも大好きで、特に『春』はあまりの美しさにいつも泣きながら読んでしまう。

雨の匂い、土や草の湿った質感、春雷の音、その質感が胸に迫ってきて、ミレーはほんとうにこの場面を見て“春”を描いたのではないかと思いたくなる。

恩田さんは実に様々なジャンルの物語を書くけれど、こういった切なさが一匙落とされたSFはいつまで経っても忘れられないような感情を私の胸に残していく作品ばかり。

 

もう少し、恩田さんの話。

恩田さんの描く天才も大好き。恩田さんの天才ものといえば『蜜蜂と遠雷』だけれど、『禁じられた楽園』も素晴らしかった。天才美術家・烏山響一が仕掛ける山の中のインスタレーションに招かれた男女の、悪魔的なホラーミステリ。恩田陸さんのパノラマ島奇譚。

この烏山響一という男に私はすっかり取り込まれてしまってる。恩田さんが“元々はバリバリ邪悪路線の男”と語る彼。魔性性が忘れられない。

小説には当たり前だけどいろいろな種類があって、圧倒的に美しい言葉選びで世界に惹き込んでいくもの、読みやすい文体でストーリーを魅せるもの、魅力的なキャラクターで読む人を誘うもの…恩田さんの作品は毎回この全てが揃っていて本当にすごいとため息をついてしまう。

烏山響一、水野理瀬、栄伝亜夜、久瀬香澄…私の心に引っかき傷のように残りつづけるキャラクターたちに時たま無性に会いたくなって、ぼろぼろになった本のページを巡る。きっとこの先も、何度も会いにいくだろうと思う。

 

 

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先日、仕事で出版社の経営をしているひとと話すことがあった。専門書の小さな出版社だという。そのひとは純文学が好きだけれど、仕事で読まなければいけない本に追われて、純粋に自分の楽しみで本を読むことがずっと出来ていないというぼやきから、“なぜ本を読まないひとが増えているのか”という話題で盛り上がった。

 

私は本が好きなので自然と友人にも本好きが集まるが、仕事や付き合いの場で本を読まない、というひとと話すこともある。

よく耳にする、目にするのは小説も映画も、あらかじめあらすじだけでなく、ネタバレを読んでから観にいく、読むという話。

その理由は、“面白くなかったら時間やお金の無駄だから”、“自分が想定している揺さぶられ方ではない形で心を揺さぶられたくないから”だという。

私もそのひとも理解は出来るけど、共感はできない。なぜだろう、という話をずっとしていた。

けれど確かに、私は元々映画オタクなので近年の映画作品の流れにおいて納得するものもあった。

ここ数年、新作映画はシリーズものやファンダムものがヒットしている傾向があると思う。過去の名作映画のリマスターリバイバル上映も多い。

損をしたくない、無駄をしたくない、という消費者感情が反映されているのかなと思う。

 

もちろん私もそのひとも、これまでそれなりの作品、私の場合は本だけでなく映画や舞台などに触れてきていてその中には“ハズレだった”という作品は沢山ある。けれどなぜ、次に観るもの読むものが“ハズレ”の可能性があるのにまた時間とお金を使って観ようと読もうととするのか。そしてしないひととは何がちがうのか。一時間ほど話し合って(我ながら酔狂な一時間だと思うけどふたりとも大真面目だった)出たひとつの仮説がある。

 

■私とそのひとのような読むひとをA、読まないひと或いは無駄打ちしたくないひとをBとする。

AにもBにもそれぞれの心に、小さな穴があるとする。ぽっかりと空いた、誰もが平等に持っている穴。

 

Aの場合、読むこと観ることによってその空虚から生まれるものを得たくてコンテンツを摂取する。そこから生まれるものはその時によって様々で、もちろん望まないものが生まれることもある。けれど、生まれたものは善しも悪しも自分から生まれたもの。それを思考し、整理することを享楽として捉えている。

例えば私の場合、読んだ本がつまらなかったとする。もちろん、お金が無駄になってしまったなという気持ちも少なからずあるけれど、苦手なものに触れたことで改めて自分の“好き”を確認し、確信する。

なぜ苦手なのか、どこが好きなのかを紐解いていくことまでが、読むこと観ることに含まれている。

最近も、カバーと帯に惹かれてきっと好きだ!と思った本を読んだものの、非常に期待外れだったことがあった。それはとある文学賞の入賞作品で、巻末に審査員である著名な作家たちの講評が載っていた。

がっかりしながら講評を読んでいると、それがとても面白い。彼らの言葉を読みながら、なぜ私はこの作品が苦手だと思ったのか、どこが嫌いなのか、そして私はどんな作品が好きなのかを改めて整理して引き出しのあるべき場所にしまっていっているような感覚になり、本を閉じたときはなんともすっきりした読了感をもったほど。

純粋にストーリーに没入し、良し悪しを感じることだけではなくて、その読書時間に何を想い何を感じたかという経験に、読むこと観ることの価値を置いているのがA。

 

 

Bの場合、その空虚を埋めるためにコンテンツを摂取しているのではないか、というのが私たちの一時間で出た仮説だ。

その穴にぴったりはまると思ってお金と時間を使ったのに、微妙にずれていて気分が悪い。

砂糖だと思って舐めたら塩だったときの驚きは、ひとにストレスを与えるし、ジグソーパズルのピースを探してしていて、最初は楽しく取っ替え引っ替えしていても、それがいつまでも続き正解が見つからないとやはりストレスがたまっていく。

その空虚からなにかを生むのではなく、その空虚をなにかで埋める。それが目的だから、想定外の感触や形を避けようとするのではないかということ。

 

 

二人で出したこの仮説に膝を打ちながら話したけれど、そのひとは出版業界にいるので笑ってばかりはいられないとも言っていた。

私は読まないひと、損をしたくないひとの気持ちを否定はしないが本当にまったく共感ができないので、それぞれの世界で生きましょうねなんて気楽に言っていられるが、そのひとからすると読むひとと読まないひとの違いというのは直接自分の収益に関わってくるのだから、大変だ。

とはいえそのひとも二人で繰り広げた机上の空論の結果の仮説に満足気な顔で珈琲を淹れ直したりしていたから、読むひとってやっぱりちょっと、そういうところだよね、と笑ってしまう。読むひとというのは、そこで得た、生まれたなにかを自分の裡のひそやかな楽しみとして悦に浸る選民意識が少なからずあるのだ、多分。なんて思いながら冷めた珈琲を飲み下した時間だった。という話。