もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

夜に寄せるエッセイ

2月5日

 

東京で久しぶりの積雪。昼にはみぞれが雪に変わって嬉しくなる。仕事だったけれど、酷くなる前に帰れたのでもううきうきと雪を見上げてしまう。

職場でわけてもらった薔薇に、雪が積もって綺麗だった。傘をさしていても花やコートに雪が模様をつくっていく。静かに、白い沈黙に染めていく。

娘は大はしゃぎで友達と雪遊びをしに出かけ、頭から爪先までびしょ濡れで帰ってくる。彼女も東京生まれ東京育ちなので雪にロマンティックな憧れを持つ仲間。

お風呂であたためても、すぐにベランダに出て雪まみれになろうとするので呆れてしまう。

 

夜、雪が降る夜のこの特別な静けさはなんだろう。雪の夜が嬉しくてすっかり夜ふかししてしまった。

夜の底がいつもより深くて、密度の濃い静寂が私も、街も、もしかしたら世界ごと雪の中に沈めようとしているような。物語の予感に満ちた特別なひそやかさ。

私は本当に雪と夜が好きだ。

 

雪といえば。2008年の2月、今はなき吉祥寺のバウスシアターで『The Virgin Suicides』『Ecole』『小さな悪の花』という少女映画の金字塔作品のオールナイト上映を観た。

まだ街が目覚めぬ早朝、倦怠と憂鬱が霧のようにじっとりとまとわりつく身体で映画館を出ると、雪が降っていた。しんしんと、まるで少女たちへの弔いのように。

そのまま街で時間を潰して、当時は渋谷にあったマリアの心臓での小さな悪の華公開記念特別展示に行く。

あの時の私は、紛うことなき少女だったように思う。

これは雪が降るたびに思い出す夜の話。

人生というのは何気ない日々の積み重ねのはずなのに、こういう印象的な1日がくっきりとした輪郭で浮かび上がってくるのがとても好き。こういう日を集めたら、どんな絵になるのだろうなんて考える夜を過ごす。

 

それにしても、私は本当に夜が好き。よく家族や友達からいつ寝てるの?と言われるくらい夜ふかしの民。寿命の前借りだよと脅されても、なかなかやめられない。夜は特別な時間。

私の夜を愛する気持ちは、書くようになってからますます高まったように思う。私は殆ど、夜しか書けない。それは子供がいるからということもあるけれど、彼女はもうそれなりに大きく何でもかんでも私が世話を焼いてやらないといけないわけではないので日中だって創作活動に費やせる時間はあるのだけど、どうしても、夜の中でしか腰を据えて書くことができないのだ。

私は以前から、物語は孤独から生まれると考えている。夜というのは孤独だ。向かいの家の窓には電気が灯っているし、道を歩くひとの話し声もかすかに聞こえる。世界でこの瞬間に起きているひとは沢山いるし、隣の部屋には娘が寝ている。それでも、夜という時間は私の心の中に心地よい静けさとやわらかな孤独を呼び起こさせる。

その静寂に沈んでいくと、日中は影になっていた心の内側の言葉や景色が夜の底に浮かんでくる。

言葉の断片を打ち込んだ画面に向かうとき、胸の中は静かに高揚している。あの心地を私は愛している。

 

そういえば昨年末に、仲良くさせていただいている方から贈られた物語を拝読して、いつから夜が怖くなくなったのか、について考えたことがあった。

私が夜が怖くなったとき、それは夜が持つ孤独や静けさや闇の向こうに、物語を見出すようになってからな気がする。孤独にもやわらかさが、闇にも色が、静けさにもかすかな音色があること。それに気づいたとき、夜は物語の予感に満ちた特別なものになった。

季節ごとで夜の闇の色や空気の匂いが変わる。日中だってそうだけれど、夜のそれは気づき、手を伸ばすまでは決して近づいては来ない。けれどこちらが目を向ければ、そっと寄り添い始める。月や星の明かりもそんな質感がある。全てを照らし出すわけではない、けれど見上げた者にはそっと瞬きを返してくれるような光。

月で思い出したエピソードがある。

娘がまだ幼稚園生だった頃、満月の夜道を歩いていたときに空を何度も何度も振り返りながら、嬉しそうに、そしてほんの少しだけ怖そうに“おつき(娘はなぜかお月さまのさままで言うのを面倒がっていた)が追いかけてくる!”と私に言う。ほんとうだね、と答えると、小走りになって隠れようとする。建物に遮られて月が見えなくなると“おつき、負けた!”と喜ぶ。どうやら満月とかくれんぼしているつもりらしい。

子どもの世界と日々は物語の始まりに満ちている。

彼女もいつか、彼女だけの特別な夜の質感に気付く日がくるのかしら。