一人の少女の話をしたい。
彼女と出逢ったとき、私もまた少女だった。友人から借りた一冊の本の中で出逢った少女は、その時からずっと私の心を捉えて離さない。
おとなになった今でも、ふいに彼女の輪郭を濃く感じることがある。そうするともうたまらなくなって、読み返しすぎてすっかり古びた文庫本を開く。彼女はそこに居る。出逢ったときと変わらない、孤高の姿で。
少女の名前は、水野理瀬。
恩田陸さんの通称“理瀬シリーズ”のヒロインだ。
16歳のときに『麦の海に沈む果実』を読んでから、私はずっと彼女を愛しつづけている。憧れと、悲しみのようなものと、鈍い痛みを伴う愛で。
先日、“理瀬シリーズ”の最新刊が発売された。これまで恩田さんがアンソロジーや文芸誌に発表した理瀬シリーズのスピンオフ小説を集めた、シリーズ初の短編集。もちろん発売日に入手して、美しい装丁を撫でたり、タイトルをなぞったり。読みたいけど読みたくない…の数日を過ごしたのち、読み始めた。
けれども途中、居ても立っても居られなくなって一度中断。
本棚から『麦の海に沈む果実』を抜き取って読み耽り、貪るように『三月は深き紅の淵を』、『黄昏の百合の骨』、『薔薇のなかの蛇』とシリーズを一から読み返す夜を過ごしてしまった。
麦の海〜、は恐らく私が人生で一番読み返している小説だと思う。印象的な台詞やシーンは諳んじることができるくらい。それでも、何度だって惹き込まれて没入してしまう。
作中に登場する詩の
“海より帰りて船人は、
再び陸(おか)で時の花びらに涼む。
海より帰りて船人は、
再び宙(そら)で時の花びらを散らす。”は理瀬にとらわれている私のことみたいだ、なんて考えながら。
各小説のあらすじは、何を言ってもネタバレを含んでしまいそうなので、今日ここでは私の理瀬への愛をただただ綴ることにする。
私がここまでとらわれている作品が気になった方がいたら、是非手にとってほしい。そして読んだら、是非私と話をしてほしい。誰が好きだった?どのシーンが好きだった?この台詞についてどう思う?この物語について、私はいつだって誰かと語り合いたい。
理瀬シリーズといえば、の『麦の海に沈む果実』は私が多感な少女時代に心の柔らかいところにしっかりと根付かせてしまった作品ということもあって、特別な存在。だから最初は、他の理瀬シリーズを読むことを躊躇ったくらいだった。
それぞれ秘密を抱えた少年少女たちの寄宿舎というロケーション、彼らの危うさ、繊細さ、儚さ、哀しさが苦しいくらいいとおしくて、この学校を去ったあとの理瀬を知るのが怖かったのだ。
もちろん、意を決して読み進めたらどれも理瀬は理瀬であり、安心したのも懐かしい。
“女の子は作られる。男の子や大人の目が女の子を作る”
これは『睡蓮』という短篇の中に出てくる言葉だか、私が恩田さんの少女が好きなのはこの恐ろしく乾いて醒めた他意識と、硬質で凛とした自意識の描き方が素晴らしいから。孤高と諦観のバランスがたまらない。
“あのさ、僕の持論なんだけど、本当にきれいな女の子って傷ついてると思うな”
これは『麦の海に沈む果実』の中の台詞。こういう端々に、恩田さんの少女論が滲んでいる。
そもそも、少女が自らを“少女”であると知るときというのは、絶対に他者の存在があると私は思っている。少女を少女たらしめるのはいつも第三者の視線。
私は以前、自分の作品の中で少女について書いたことがある。
“少女、という存在は哀しい。少女は自らが少女であることを自覚すればもはやその聖性が失われ、自覚を持たぬうちは少女の聖性を崇めるものに知らぬ間に搾取される。
一瞬のひとときの、やがては失われることが決まっている美。
少女という生き物は、変わりゆく自らや無責任な他者の視線から急き立てられるように内側を熟してゆき、少女の薄衣を脱ぎ捨てていく。”
これは、私の少女論。
だからこそ、それでも─変容しながら、なにものにもおかされない、共存しない、孤高の魂を持つ物語の中の少女、に憧れてしまう。
自らの意志で、誰にも介入させず、変容していく少女への、信仰めいた憧れ。
私は全てを凌駕していく少女の話が好きだ。
理瀬はヨハンや稔を共犯者としているものの、彼らだって彼女の孤高には触れられない気がするし、麦の海〜で今は導くものである父といつの日か敵として対峙するときがくるかもしれないと理瀬本人が予感しているのもたまらない。導く者、共犯者、そして自らの創造主をも凌駕していく少女。
水野理瀬だけでなく、物語の中で鮮烈な出逢いをした彼女たち─例えばシャーロック・ホームズシリーズのアイリーン・アドラー、魔法使いの約束の北の魔女チレッタや北の魔女エヴァ。
脅威として認定される女たちの孤高は、神様に対峙したときのような畏れを呼び起こす少女性を伴っていると思う。
そんなことを考えながら読み進めて、数日前についに新刊の『夜明けの花園』を読了した。
麦の海〜から読み返してずっと理瀬を追う旅をしていた気分だった。彼女は何処に向かって、何処まで行くのだろう。
絡みつく茨の棘のように張り巡らされた謎や思惑。不穏の通奏低音、胸が引っかかれるような喪失感、甘く苦い追想。
私の中の理想の永遠少女である理瀬が導く物語に今回もまた魅了され続けた。
新刊の短篇の中では『睡蓮』が一番好き。
読みながらずっと、オフィーリアが頭に浮かんでいた。オフィーリアといえばジョン・エヴァレット・ミレイによる絵画が有名だけれど、なんとなく、理瀬はミレイよりウォーターハウスのオフィーリアが似合う気がする。
ウォーターハウスは三枚のオフィーリアを描いているけれど、どれも有名な狂乱死の姿ではなく生きている姿だ。
ラファエロ前派らしく小川、睡蓮など死を彷彿させるシンボリックなモチーフと共に描かれているものの、彼女は生きている。暗い瞳で見つめている。こちらを、誰かを、なにかを。
彼女は既に正気を手放してしまっている時期だけれど、まだ生きているのだ。破滅と、崩壊と、不吉な死を予感させながらも、実に鋭い輪郭のまま存在しているオフィーリアが、水野理瀬の少女性と類似していると私は思う。
オフィーリアは正気を手放し、命を諦める。それじゃあ水野理瀬は?
彼女もまた、なにかを手放し、なにかを諦めながら変容していっている。その先がオフィーリアのような最期なのか、誰もが手の届かぬ高みまで昇っていくのか、まだ分からないけれど、いつまでも彼女を追い続けていたいと切実に思う。
そう、このシリーズの好きなところのひとつに、その手放すこと、諦めることのなんとも狂しい痛みの描き方、がある。
住む世界が違う二人、或いはほんの一部の世界だけが交差している二人が、奇跡みたいに一瞬だけ手を取り混じり合う刹那の描写がほんとうに美しいのだ。
手を取ったら、全てのしがらみから解き放たれるのかもしれない。けれどそれを自分は本当に望むのか?そして相手は?そもそもその決断をできるのならば、今ここにこのかたちで自分と相手がいることはないではないか。
そんなふうに手を伸ばし、諦め、なにかを弔い、なにかを殺して微笑み合う少年少女たちの刹那にいつも胸が締め付けられる。
萩尾望都さんの『ポーの一族』の“おいでよ、ひとりではさみしすぎる”という一節がほんとうに好きなのだけれど、『黄昏の百合の骨』の“「一緒に飛んでいってくれる?」「──いいよ」”というやり取りにも、それと同じ悲しい美しさがあって、毎回たまらなくて泣いてしまう。
切なさと、そして私は決して彼らのどちらにもなれないことへの痛みと、憧れと………そんな愛で私はこのシリーズを愛していてこれからも愛しつづけるのだと思う。
さて、今は『黒と茶の幻想』を読み返している。これは壮年の男女四人が屋久島の杉の木を観にいくという一見地味なお話。けれど理瀬シリーズを読んだひとには嬉しい仕掛けがたくさんある。
まず、『黒と茶の幻想』という本が理瀬シリーズに登場しているし、男女四人が語る様々な話の陰に、いつもいる女性─それが理瀬の友人だった憂理なのだ。
私は理瀬シリーズの中で一番シンパシーを感じるのがこの憂理。
理瀬シリーズを一気に読み返した後に『黒と茶の幻想』を読むと、理瀬シリーズのとことん暗黒乙女めいた世界観からは考えられないくらい登場人物たちが“普通の世界の普通のひとたち”であることに戸惑うのだが、読み進めればやっぱりたちまち引き込まれて憂理という女の“美しい謎”を追う追想と現実が交差する旅に夢中になる。
時間を忘れて、ひたすら没入するように読書することができることの幸福っていったらない。そんな本に出逢うために生きていると言えるほど。
今夜も少女の幻影を追って、古びたページをめくる。幾度も、飽きることなく。