もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

天使みたいにかわいい私の話

川野芽生さんの初のエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』を読んでいる。 ロリィタや少年装との出会い、エルフや幻獣への憧れ、人形になりたいという気持ちについて…装うことで本来の自分を取り戻していくことが綴られたエッセイに、冒頭から泣いてしまった。(ちなみに私も昔も今もロリイタ装を愛している)

そうなのだ。“女の子”や“女の子らしい”は、私にとって物語めいた存在で物語としての憧れであり、“女の子らしいもの”(女の子らしいといわれがちなもの)を愛しているのはただただ純粋にそれが好きなだけ。誰かのためや、こうあるべき、に沿うためじゃない。私が私のために選んだだけ。若草物語でジョーではなくメグが一番好きなのも、ディズニープリンセスでベルやアリエルではなくて白雪姫が一番好きなのも。

 

以前、ロマンティシズムやエレガンスを愛することへ他者から向けられる視線についてここにも書いた→https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/05/03/011449

 

川野さんのエッセイを読みながら、同じ気持ちを持ち、不快感を持ち、憤り、絶望し、それでも自分の理想の自分に還っていこうとするひとがいることに励まされるようでひたすら泣きながらページをめくっている。

美しいものを美しいと思うことに付随する搾取、美しくあれという規範と、美しくあろうとすることへの嘲笑、不躾な視線…かつて私も“ぶりっ子”とからかわれ、私の趣味や愛するものの上澄みだけをみた異性から“理想の女の子”という判を押されることに憤って、絶望していたときがあった。

時代や環境が変わって、そういう言葉や視線を投げかけられることは少なくなったけれど、本を読み進めながらかつてそうやって傷つけられたり、あるいは自分で自分を貶めたりしてしまったときに出来たかさぶたが、癒えていくようだった。

そのかさぶたのところには、かつて天使の羽根があった。毟り取られてしまった翼を、私は少しずつ取り戻している。

川野さんは“そして私はかわいいピンクの竜になる”と言っている。私はいつか“かわいい白い天使になる”つもりだ。

 

そういえば、以前別のサーバーで綴っていたブログで、高楼方子さんのYA作品『緑の模様画』に登場するアミについて書いたことがある。

『緑の模様画』は海の見える坂の街で、多感な三人の女の子が過ごした不思議な時間のお話。

バーネットの『小公女』がキーになる謎や、時を超える不可思議な出来事。散りばめられたモチーフも素敵で、春になるといつも読み返す一冊。

主人公三人のうちの一人、ぷっくりした頬とおさげ髪のアーメンガードのような少女がアミである。彼女もやはり、かわいいもの、綺麗なもの、ロマンティシズムやエレガンスを愛するひとだった。

私はお小遣いで生花や刺繍のハンカチを買うことを友人に驚かれたアミが恥ずかしがりながらも、はっきりと“だってきれいなんだもの”と答えるシーンが大好き。

真新しい制服に身を包んで中学に進んだばかりの少女のお小遣いは限られていて、他にも欲しいものは沢山あるだろうし、花やハンカチを買うことを“気取っている”、“いい子ぶりっ子”とからかう人だってきっといただろう。

けれど、“ただ美しい”という理由で花屋で花を選び、繊細な刺繍を慈しむ心がいとおしくてたまらなくて大好きなのだ。

 

“女の子らしい”世界を愛するひとはその世界の色彩や質感からふわふわとした印象をもたれることが多いけど、じつは頑なで頑固でとても強い心と誇りを持っていることを私は知っている。

その世界を愛する硬質な心を、誰にも触れさせないことを私は知っている。

“だって、きれいなんだもの”と言って、世界の規範やバイアスに中指を立てている。

私の装いや髪色にはジェンダーバイアスだけでなく、“母親”と“年齢”というバイアスもかかるときがある。

お母さんに見えないね、という褒め言葉には批判の棘が秘められていることもあるし、純粋な褒め言葉として投げかけられても“だってお母さんであるのが私の全てじゃないし…お母さんの前に私だし…”ともやもやする。

最近は“私は天使だから”と返すようにしている。相手が怪訝な顔をするのが可笑しくて、心のなかで中指を立てる。

誰がなんと言おうと、私は私が好きだし、私が美しいのは私のため。それだけだ。