もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

季節と季節の間の余白

■2.15

ここ数日、すっかり春のようにあたたかい。2月だというのに。

冬の残滓を散らす強風、なまぬるい空気の黙祷、季節が弔われている。

私は春は身体と相性が悪く、冬を愛しているのでもう少し冬が続いてほしい。

三寒四温。寒さは冬のそれより輪郭が滑らかで、あたたかさは春のそれよりざらりとしている。

季節と季節の間の余白に落ちてしまったように、心もとない気持ちで揺蕩っているうちに桜が咲いてほんものの春が来るのだ、毎年。

 

オイルパステルで描いた春の白昼夢。

春は苦手だけど、春の花は大好き。世界が一番色鮮やかで、いつだっていい香りがしている季節。

 

■2.17

週末にいい加減後回しにしていた確定申告にまつわるあれこれを手につけなければならないので、気合を入れるために花を買う。

選んだのはミモザ。ここ数年でミモザがすっかりポピュラーになり、花屋で手軽に買えるようになったのが嬉しい。

ふわふわとした妖精の帽子のような花は一日経つと乾燥してきゅっとしぼんでしまう。

ふわふわの姿の儚さが物語めいていて好きだが、しぼんだ花はどことなく黄色が濃くなってシルバーグリーンの葉と共に凛とした美しさを見せてくれる。強くて、様々な表情を見せる花が国際女性デーの象徴になっているのが誇らしい。

 

 

ふわふわの花姿を残したくて、オイルパステルでドローイング。

 

 

いつも風景ばかり描いているので静物画は初めて。まだまだ拙いけれど、花のひとときを切り取って閉じ込めるのは楽しい。

 

春というのは、なんとなく憂鬱と寂寞があたたかな空気の底に漂っているようで、創作のモチーフとしては好きみたい。ということにふと気づいた。春が舞台のお話をいくつも書いていて、それはさみしく、メランコリックで、諦観が滲んだお話ばかり。

ヨーロッパの春は純粋な喜びの季節だったけれど、日本は春が新生活の終わりと始まりだからやっぱり一匙のさみしさが混ざるのかもしれない。

各季節の表の顔の奥にひそんだメランコリーやノスタルジー、さみしさやかなしさ、諦め、そういうものをピンセットでつまみ出して、丁寧にノートに押していく、或いはガラス瓶にいれる。そしてラベルを貼る。例えば─《春、かわいた花びらと雨上がりの生々しい匂い、去っていく背中の白さのお話》。

色も質感も匂いもみんなそれぞれ違う。季節のお話を書くとき、いつも標本を作るような気分になる。

標本というものは作るときも、みるときも、みな息をひそめて、そっと向き合う。多分、そんなふうに物語をつくりたいし、そんなふうに扱ってほしいという気持ちが強いのかもしれない。

外に発信した時点で、読むひとに託されるものだけれど、それでも大切な私のコレクションだから。

なんてことを考えていた、冬と春の間の余白の一日。

 

 

 

 

 

 

理瀬という少女について

一人の少女の話をしたい。

彼女と出逢ったとき、私もまた少女だった。友人から借りた一冊の本の中で出逢った少女は、その時からずっと私の心を捉えて離さない。

おとなになった今でも、ふいに彼女の輪郭を濃く感じることがある。そうするともうたまらなくなって、読み返しすぎてすっかり古びた文庫本を開く。彼女はそこに居る。出逢ったときと変わらない、孤高の姿で。

 

少女の名前は、水野理瀬。

恩田陸さんの通称“理瀬シリーズ”のヒロインだ。

16歳のときに『麦の海に沈む果実』を読んでから、私はずっと彼女を愛しつづけている。憧れと、悲しみのようなものと、鈍い痛みを伴う愛で。

先日、“理瀬シリーズ”の最新刊が発売された。これまで恩田さんがアンソロジーや文芸誌に発表した理瀬シリーズのスピンオフ小説を集めた、シリーズ初の短編集。もちろん発売日に入手して、美しい装丁を撫でたり、タイトルをなぞったり。読みたいけど読みたくない…の数日を過ごしたのち、読み始めた。

けれども途中、居ても立っても居られなくなって一度中断。

本棚から『麦の海に沈む果実』を抜き取って読み耽り、貪るように『三月は深き紅の淵を』、『黄昏の百合の骨』、『薔薇のなかの蛇』とシリーズを一から読み返す夜を過ごしてしまった。

 

麦の海〜、は恐らく私が人生で一番読み返している小説だと思う。印象的な台詞やシーンは諳んじることができるくらい。それでも、何度だって惹き込まれて没入してしまう。

作中に登場する詩の

“海より帰りて船人は、

再び陸(おか)で時の花びらに涼む。

海より帰りて船人は、

再び宙(そら)で時の花びらを散らす。”は理瀬にとらわれている私のことみたいだ、なんて考えながら。

 

各小説のあらすじは、何を言ってもネタバレを含んでしまいそうなので、今日ここでは私の理瀬への愛をただただ綴ることにする。

私がここまでとらわれている作品が気になった方がいたら、是非手にとってほしい。そして読んだら、是非私と話をしてほしい。誰が好きだった?どのシーンが好きだった?この台詞についてどう思う?この物語について、私はいつだって誰かと語り合いたい。

 

理瀬シリーズといえば、の『麦の海に沈む果実』は私が多感な少女時代に心の柔らかいところにしっかりと根付かせてしまった作品ということもあって、特別な存在。だから最初は、他の理瀬シリーズを読むことを躊躇ったくらいだった。

それぞれ秘密を抱えた少年少女たちの寄宿舎というロケーション、彼らの危うさ、繊細さ、儚さ、哀しさが苦しいくらいいとおしくて、この学校を去ったあとの理瀬を知るのが怖かったのだ。

もちろん、意を決して読み進めたらどれも理瀬は理瀬であり、安心したのも懐かしい。

 

 

“女の子は作られる。男の子や大人の目が女の子を作る”

これは『睡蓮』という短篇の中に出てくる言葉だか、私が恩田さんの少女が好きなのはこの恐ろしく乾いて醒めた他意識と、硬質で凛とした自意識の描き方が素晴らしいから。孤高と諦観のバランスがたまらない。

“あのさ、僕の持論なんだけど、本当にきれいな女の子って傷ついてると思うな”

これは『麦の海に沈む果実』の中の台詞。こういう端々に、恩田さんの少女論が滲んでいる。

そもそも、少女が自らを“少女”であると知るときというのは、絶対に他者の存在があると私は思っている。少女を少女たらしめるのはいつも第三者の視線。

 

私は以前、自分の作品の中で少女について書いたことがある。

 

“少女、という存在は哀しい。少女は自らが少女であることを自覚すればもはやその聖性が失われ、自覚を持たぬうちは少女の聖性を崇めるものに知らぬ間に搾取される。

一瞬のひとときの、やがては失われることが決まっている美。

少女という生き物は、変わりゆく自らや無責任な他者の視線から急き立てられるように内側を熟してゆき、少女の薄衣を脱ぎ捨てていく。”

 

これは、私の少女論。

だからこそ、それでも─変容しながら、なにものにもおかされない、共存しない、孤高の魂を持つ物語の中の少女、に憧れてしまう。

自らの意志で、誰にも介入させず、変容していく少女への、信仰めいた憧れ。

 

私は全てを凌駕していく少女の話が好きだ。

理瀬はヨハンや稔を共犯者としているものの、彼らだって彼女の孤高には触れられない気がするし、麦の海〜で今は導くものである父といつの日か敵として対峙するときがくるかもしれないと理瀬本人が予感しているのもたまらない。導く者、共犯者、そして自らの創造主をも凌駕していく少女。

 

水野理瀬だけでなく、物語の中で鮮烈な出逢いをした彼女たち─例えばシャーロック・ホームズシリーズのアイリーン・アドラー、魔法使いの約束の北の魔女チレッタや北の魔女エヴァ

脅威として認定される女たちの孤高は、神様に対峙したときのような畏れを呼び起こす少女性を伴っていると思う。

 

そんなことを考えながら読み進めて、数日前についに新刊の『夜明けの花園』を読了した。

 

麦の海〜から読み返してずっと理瀬を追う旅をしていた気分だった。彼女は何処に向かって、何処まで行くのだろう。

絡みつく茨の棘のように張り巡らされた謎や思惑。不穏の通奏低音、胸が引っかかれるような喪失感、甘く苦い追想

私の中の理想の永遠少女である理瀬が導く物語に今回もまた魅了され続けた。

 

新刊の短篇の中では『睡蓮』が一番好き。

読みながらずっと、オフィーリアが頭に浮かんでいた。オフィーリアといえばジョン・エヴァレット・ミレイによる絵画が有名だけれど、なんとなく、理瀬はミレイよりウォーターハウスのオフィーリアが似合う気がする。

 

ウォーターハウスは三枚のオフィーリアを描いているけれど、どれも有名な狂乱死の姿ではなく生きている姿だ。

ラファエロ前派らしく小川、睡蓮など死を彷彿させるシンボリックなモチーフと共に描かれているものの、彼女は生きている。暗い瞳で見つめている。こちらを、誰かを、なにかを。

彼女は既に正気を手放してしまっている時期だけれど、まだ生きているのだ。破滅と、崩壊と、不吉な死を予感させながらも、実に鋭い輪郭のまま存在しているオフィーリアが、水野理瀬の少女性と類似していると私は思う。

オフィーリアは正気を手放し、命を諦める。それじゃあ水野理瀬は?

彼女もまた、なにかを手放し、なにかを諦めながら変容していっている。その先がオフィーリアのような最期なのか、誰もが手の届かぬ高みまで昇っていくのか、まだ分からないけれど、いつまでも彼女を追い続けていたいと切実に思う。

 

そう、このシリーズの好きなところのひとつに、その手放すこと、諦めることのなんとも狂しい痛みの描き方、がある。

住む世界が違う二人、或いはほんの一部の世界だけが交差している二人が、奇跡みたいに一瞬だけ手を取り混じり合う刹那の描写がほんとうに美しいのだ。

手を取ったら、全てのしがらみから解き放たれるのかもしれない。けれどそれを自分は本当に望むのか?そして相手は?そもそもその決断をできるのならば、今ここにこのかたちで自分と相手がいることはないではないか。

そんなふうに手を伸ばし、諦め、なにかを弔い、なにかを殺して微笑み合う少年少女たちの刹那にいつも胸が締め付けられる。

 

萩尾望都さんの『ポーの一族』の“おいでよ、ひとりではさみしすぎる”という一節がほんとうに好きなのだけれど、『黄昏の百合の骨』の“「一緒に飛んでいってくれる?」「──いいよ」”というやり取りにも、それと同じ悲しい美しさがあって、毎回たまらなくて泣いてしまう。

切なさと、そして私は決して彼らのどちらにもなれないことへの痛みと、憧れと………そんな愛で私はこのシリーズを愛していてこれからも愛しつづけるのだと思う。

 

 

さて、今は『黒と茶の幻想』を読み返している。これは壮年の男女四人が屋久島の杉の木を観にいくという一見地味なお話。けれど理瀬シリーズを読んだひとには嬉しい仕掛けがたくさんある。

まず、『黒と茶の幻想』という本が理瀬シリーズに登場しているし、男女四人が語る様々な話の陰に、いつもいる女性─それが理瀬の友人だった憂理なのだ。

私は理瀬シリーズの中で一番シンパシーを感じるのがこの憂理。

理瀬シリーズを一気に読み返した後に『黒と茶の幻想』を読むと、理瀬シリーズのとことん暗黒乙女めいた世界観からは考えられないくらい登場人物たちが“普通の世界の普通のひとたち”であることに戸惑うのだが、読み進めればやっぱりたちまち引き込まれて憂理という女の“美しい謎”を追う追想と現実が交差する旅に夢中になる。

 

時間を忘れて、ひたすら没入するように読書することができることの幸福っていったらない。そんな本に出逢うために生きていると言えるほど。

今夜も少女の幻影を追って、古びたページをめくる。幾度も、飽きることなく。

 

 

 

最近のときめきの欠片たち。

最近我が家にやってきた、嬉しいの欠片の記録。

 

 

ついにお迎えしたチェロのハードケース。チェロを始めて今年で三年目。ずっとソフトケースを使っていました。ソフトケースは軽くて良いのだけど、自立してくれないので置き場所や移動時が少し困る。

楽器だけでなくケースもお値段はピンからキリまであるので、重さや性能にうんと拘らなければそれなりのお値段でそれなりの品を手に入れることができます。

けれど私は自分に対してのプライドが厄介に高いところがあり、まだ、この技術ではハードケースなんぞをお迎えするに値しない…なんて思いながら二年を過ごしていたのです。

技術なんて関係なく、ハードケースのほうが便利でしょ、で割り切れないところが自分の頑固なところだなと思いつつ、三年目にしてやっとそろそろお迎えしても良いだろう…と思う程度には弾けるようになった、というわけ。

 

私の大好きな棗巳波くんもチェロを弾く人で、これを読んだときに絶対にチェロケースを新たに買う!それに値する技術が得られるまでをとりあえずの目標にする!と掲げていたので、ひとつ、目標達成。

楽器ケースへのひそやかな憧れは以前このブログにもつづったけれど(https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/11/04/002330)、私の小さな箱庭に何を忍ばせるか、考えている時間がとっても楽しい。

まだ楽器しかしまっていないケース。思い通りの箱庭が出来上がったら、ここでもお披露目させてね。

 

ここ数日でお迎えした本たち。

“最近の作家さんでお勧めは?”と聞かれたら必ず川野芽生さんと雛倉さりえさんを挙げるのだけど、この二人はいつも本当に打ちのめされてしまう。言葉ひとつひとつを全部食べたら、なにかうつくしい幻獣になれそうな気がする。そんな作家さん。

川野さんの初エッセイと、好きな人形作家さんの人形をモチーフにした短歌集、大切に読みたいと思います。

 

二枚目は詩集、歌集、随筆集。

詩は元々好きで、自分も書いたりしていました。けれど好きということが恥ずかしいという思いがあってずっと秘めていたり、なにかでその思いが明るみに出たとき過剰に自嘲してみせたり。最近はそんなふうに好きを自分で卑下するのをやめようと決めて、読むことも書いていることも隠していません。詩と短歌は奥深くて、書こうとすればするほど難しい。勉強のために、気になっていた二人の作品集をお迎えしたのでした。

 

最後の一冊は憧れで幻の片山廣子さんの『燈火節』を底本として早川茉莉さんが選んだ随筆集。

熊井明子さんのエッセイで“二月 虹を織る”の一節とともに紹介されていた『燈火節』にずっとずっと夢見ていたので本当に嬉しい!(燈火節は絶版で、古本が出回ってもとてつもない値段がついていたのです)

 

職場のひとにお誕生日プレゼントでハンニバルのレシピブックをいただく!

画集のような大判本、料理の写真もマッツも美しくて痺れています。

私は食べることにあまり関心がなく、料理も好きではないくせに、お話の中のレシピブックというものが本当に好き。先日のブログで触れた魔法使いの約束のレシピブックももちろん買ったし、ルイス・キャロルのアリスの世界のレシピブック、赤毛のアンのレシピブック、メリー・ポピンズのレシピブックなど、ただ眺めて楽しむだけのレシピブックが我が家には沢山あるのです。

自分でも呆れてしまうけど、一度だってそのレシピブックを本当の意味で活用したことはありません…。

 

2月14日バレンタインの記録。

なんだかんだ毎年ショコラの祭典に行っていた私だけれど今年は日程が調節できず、以前から気になっていたお店のチョコレートをオンラインで注文しました。

これは、四大元素をモチーフにしたチョコレート。

火はカーネリアン、水はラピスラズリ、空気(風)はターコイズ、土は翡翠をイメージしてるのだそう。

 

もうひとつ、ラピスラズリのケース入りひと粒チョコレートも。そこはかとなく、マナ石みたい!

魔女のつもりで、ひそやかにいただきました。

 

これは娘がつくってくれた生チョコレート。ほんの少し前までは、一緒に手伝って…と言ってきていたのに気づいたら私の知らないところでお友達とちゃちゃっと作ってきてるのだもの、子供の成長の速度に驚かされてばかり。

甘くてとっても美味しかったです。

 

ところで私は、チョコレートほど、秘密めいているお菓子ってないんじゃないか、と思っているのですがどうでしょう?

宝石みたいな美しいひと粒は手のひらに乗ってしまうサイズ、口に含めばあっという間に溶けてしまって、甘い香りだけが、忘れられない恋みたいにいつまでも残るお菓子。

森茉莉さんが『エロティシズムの中には魔がある』と書いているけれど、チョコレートを食べるとき私はいつもこの一文を思い出してしまいます。

その儚いくせに決して忘れさせない痕跡を残すところにもしかしたらエロティシズムと魔を感じているのかも。

森茉莉さんはチョコレートについても綴っていて『私はだいたいチョコレイトは珈琲、煙草と優に並ぶ、コカイン的な嗜好品、つまり大人の食べものだと、思っている』とのこと。

コカイン的な嗜好品。私はチョコレートの他に、薔薇の花びらやすみれの花びらの砂糖漬け(花を喰むという陶酔)、ボンボン(あの舌触りと、麻薬のように舌を刺すリキュールの香り)を挙げたいです。

どれも一口でほろりと形を無くしてしまうものばかり。そんな脆いものを喰むという行為になにかサディスティックな歓びを感じているのかもしれません。

『好きな菓子はなんだい?』『あたくし?すみれの花びらよ』なんて答える物語の登場人物がいたら、たちまち好きになってしまうでしょう。

 

 

 

Hello World

2月10日

大好きなお友達三人でフォルモーントシティへ行った日。

魔法使いの約束のイベントストーリー『パラドクスロイド』とコラボしているジョイポリス

子供の時に訪れて全ての乗り物に酔うというあまり楽しくない記憶があって不安に思っていたのですが杞憂に終わりました。なぜって、ひたすらおしゃべりして、乗り物は一つも乗らなかったから。

入園してすぐのアイスクリーム屋さんのスタンドで立ったまま二時間も話していることに気づいたときは三人でお腹を抱えて笑ってしまったのでした。

 

私の大好きなルチルくんはこのイベントでは立ち絵も登場しないのだけど、ちゃんと彼の所属する階級のドリンクがあるし、コラボ用に21人全員分のデフォルメイラストが描き下ろされているの、とても手厚い。

 

一緒にいったお友達はフィガロ推しとオーエン推し。

二人共創作者で、彼女たちの描く世界を敬愛しているので、本当におしゃべりが楽しい。

ここのところ、お友達に恵まれていると思うことが多くて。

基本的に根っこが似ているというか、好きなものへの向き合い方や人との距離感、自尊心や美意識の在り方が通ずるものがあるので心地良いのだと思います。

伝えたいことがちゃんと伝わるだろうか、誤解を招かないだろうか、傷付けないだろうかと過剰な心配をせず(気遣いはもちろんする)安心して話せる。

大人になってから友達をつくることっていうのはとても難しいと思うので、恵まれた縁に感謝しながら、喉がからからになるまで笑い、話していました。

 

ジョイポリスのカフェにてコラボメニューを。

魔法使いの約束のエイプリルフールイベントは、彼らの世界で賢者(プレイヤーキャラ)が見た一晩の夢、パラレルワールドという設定で展開されています。

学園パロだったり、海賊になってみたり、このパラロイはアシストロイドと人間が共存、否アシストロイドを作り出しその存在に依存した人間が統治する世界が舞台。いつもの魔法使いたちの物語とは世界線が違うけれどどれも本当に面白い。

彼らの祝福や呪いや、因果や運命をいつもと違った視点から見れる。それがすごくアイロニーなときもあってゾクッとしてしまうのも含めて好き。

今年のエイプリルフールはどんな世界を見せてくれるのか今からとても楽しみにしています。

 

日が暮れてから、coly cafeに移動。

初めて訪れたけれど店内が可愛くて嬉しくなっちゃう。これはcolyのコンテンツのファンたちがよくここでぬいや痛バの写真を撮っている投稿を見ていて憧れていたやつ。

オエとルチルは本編ではあまり絡みがないのに、私たちのせいで割りとオエぬルチぬが共に過ごすことが多くて不憫。オエはフィも苦手だろうし…甘い物三昧だったのでそれで許してほしいな…

 

お料理もスイーツも美味しかった。トルタディコッコだけが、イメージと違って違う!こうじゃないのよ!と言いながらも完食。解釈でお腹は膨れないので。

ラーメンもどき、トルタディコッコ、豊かな街のオレンジティーをオーダー。まほやくは公式レシピ本も出ているし、物語の中に登場する料理はどれも本当に美味しそう。

今、バレンタインイベントのストーリーを読み進めているけれど、沢山チョコレートが食べたくなってしまって困っています。

 

とにかくひたすら喋り尽くした一日。笑いすぎて頬が痛い。なんて幸せな痛み!

coly shopで魔法使いたちの香水を嗅ぐのも楽しかった。

ルチルくんのは持っているけれど、リケの香りがとっても好み。カインは、“カインからこの匂いがしたら好きになっちゃうじゃない…”と三人で膝から崩れ落ちる香りだったし、品切れだったけど友人曰く“驚くほど甘くて、重い”オズの香りがとっても気になっている。(わたしはオズとミスラもとてもかなり好きなのです…)

 

友人の一人は遠方なので、また再会する日を楽しみに、満ち足りた気持ちで帰路につきました。長い時間、ありがとう。

 

 

これはコリショでお迎えしたルチルくんのメダル。キャラ絵グッズも好きだけれど、こういう物語の中に登場するものや概念グッズがまほやくは特に好きで、ついついお財布の紐が緩んでしまうのです。

そもそも魔法使い、月、というモチーフなんて元々大好きなのだから、仕方ない。と言いながらグッズや本やぬいぐるみにまみれて日々を過ごしています。幸せ。

 

 

 

 

夜に寄せるエッセイ

2月5日

 

東京で久しぶりの積雪。昼にはみぞれが雪に変わって嬉しくなる。仕事だったけれど、酷くなる前に帰れたのでもううきうきと雪を見上げてしまう。

職場でわけてもらった薔薇に、雪が積もって綺麗だった。傘をさしていても花やコートに雪が模様をつくっていく。静かに、白い沈黙に染めていく。

娘は大はしゃぎで友達と雪遊びをしに出かけ、頭から爪先までびしょ濡れで帰ってくる。彼女も東京生まれ東京育ちなので雪にロマンティックな憧れを持つ仲間。

お風呂であたためても、すぐにベランダに出て雪まみれになろうとするので呆れてしまう。

 

夜、雪が降る夜のこの特別な静けさはなんだろう。雪の夜が嬉しくてすっかり夜ふかししてしまった。

夜の底がいつもより深くて、密度の濃い静寂が私も、街も、もしかしたら世界ごと雪の中に沈めようとしているような。物語の予感に満ちた特別なひそやかさ。

私は本当に雪と夜が好きだ。

 

雪といえば。2008年の2月、今はなき吉祥寺のバウスシアターで『The Virgin Suicides』『Ecole』『小さな悪の花』という少女映画の金字塔作品のオールナイト上映を観た。

まだ街が目覚めぬ早朝、倦怠と憂鬱が霧のようにじっとりとまとわりつく身体で映画館を出ると、雪が降っていた。しんしんと、まるで少女たちへの弔いのように。

そのまま街で時間を潰して、当時は渋谷にあったマリアの心臓での小さな悪の華公開記念特別展示に行く。

あの時の私は、紛うことなき少女だったように思う。

これは雪が降るたびに思い出す夜の話。

人生というのは何気ない日々の積み重ねのはずなのに、こういう印象的な1日がくっきりとした輪郭で浮かび上がってくるのがとても好き。こういう日を集めたら、どんな絵になるのだろうなんて考える夜を過ごす。

 

それにしても、私は本当に夜が好き。よく家族や友達からいつ寝てるの?と言われるくらい夜ふかしの民。寿命の前借りだよと脅されても、なかなかやめられない。夜は特別な時間。

私の夜を愛する気持ちは、書くようになってからますます高まったように思う。私は殆ど、夜しか書けない。それは子供がいるからということもあるけれど、彼女はもうそれなりに大きく何でもかんでも私が世話を焼いてやらないといけないわけではないので日中だって創作活動に費やせる時間はあるのだけど、どうしても、夜の中でしか腰を据えて書くことができないのだ。

私は以前から、物語は孤独から生まれると考えている。夜というのは孤独だ。向かいの家の窓には電気が灯っているし、道を歩くひとの話し声もかすかに聞こえる。世界でこの瞬間に起きているひとは沢山いるし、隣の部屋には娘が寝ている。それでも、夜という時間は私の心の中に心地よい静けさとやわらかな孤独を呼び起こさせる。

その静寂に沈んでいくと、日中は影になっていた心の内側の言葉や景色が夜の底に浮かんでくる。

言葉の断片を打ち込んだ画面に向かうとき、胸の中は静かに高揚している。あの心地を私は愛している。

 

そういえば昨年末に、仲良くさせていただいている方から贈られた物語を拝読して、いつから夜が怖くなくなったのか、について考えたことがあった。

私が夜が怖くなったとき、それは夜が持つ孤独や静けさや闇の向こうに、物語を見出すようになってからな気がする。孤独にもやわらかさが、闇にも色が、静けさにもかすかな音色があること。それに気づいたとき、夜は物語の予感に満ちた特別なものになった。

季節ごとで夜の闇の色や空気の匂いが変わる。日中だってそうだけれど、夜のそれは気づき、手を伸ばすまでは決して近づいては来ない。けれどこちらが目を向ければ、そっと寄り添い始める。月や星の明かりもそんな質感がある。全てを照らし出すわけではない、けれど見上げた者にはそっと瞬きを返してくれるような光。

月で思い出したエピソードがある。

娘がまだ幼稚園生だった頃、満月の夜道を歩いていたときに空を何度も何度も振り返りながら、嬉しそうに、そしてほんの少しだけ怖そうに“おつき(娘はなぜかお月さまのさままで言うのを面倒がっていた)が追いかけてくる!”と私に言う。ほんとうだね、と答えると、小走りになって隠れようとする。建物に遮られて月が見えなくなると“おつき、負けた!”と喜ぶ。どうやら満月とかくれんぼしているつもりらしい。

子どもの世界と日々は物語の始まりに満ちている。

彼女もいつか、彼女だけの特別な夜の質感に気付く日がくるのかしら。

本についてのあれこれ

2月4日

 

Xで相互さんたちと恩田陸さんの『ライオンハート』についてお話する。恩田陸さんを好きなひとは周りに沢山いるけれど、『ライオンハート』が好きというひとにはあまり出逢って来なかったからとても嬉しい。

時を越えて、出逢った瞬間に互いのことを思い出して、けれど決して結ばれることのない運命の二人。

“会った瞬間に、世界が金色に弾ける”…その金色はどんなに美しいのだろうと想いを馳せながら何度も読み返している作品。

恋愛小説というものをあまり読んできていない私だけれど、この作品は“私の好きな恋愛小説”の一位に君臨している。絵画や音楽が印象的に物語のキーとして使われているところも大好きで、特に『春』はあまりの美しさにいつも泣きながら読んでしまう。

雨の匂い、土や草の湿った質感、春雷の音、その質感が胸に迫ってきて、ミレーはほんとうにこの場面を見て“春”を描いたのではないかと思いたくなる。

恩田さんは実に様々なジャンルの物語を書くけれど、こういった切なさが一匙落とされたSFはいつまで経っても忘れられないような感情を私の胸に残していく作品ばかり。

 

もう少し、恩田さんの話。

恩田さんの描く天才も大好き。恩田さんの天才ものといえば『蜜蜂と遠雷』だけれど、『禁じられた楽園』も素晴らしかった。天才美術家・烏山響一が仕掛ける山の中のインスタレーションに招かれた男女の、悪魔的なホラーミステリ。恩田陸さんのパノラマ島奇譚。

この烏山響一という男に私はすっかり取り込まれてしまってる。恩田さんが“元々はバリバリ邪悪路線の男”と語る彼。魔性性が忘れられない。

小説には当たり前だけどいろいろな種類があって、圧倒的に美しい言葉選びで世界に惹き込んでいくもの、読みやすい文体でストーリーを魅せるもの、魅力的なキャラクターで読む人を誘うもの…恩田さんの作品は毎回この全てが揃っていて本当にすごいとため息をついてしまう。

烏山響一、水野理瀬、栄伝亜夜、久瀬香澄…私の心に引っかき傷のように残りつづけるキャラクターたちに時たま無性に会いたくなって、ぼろぼろになった本のページを巡る。きっとこの先も、何度も会いにいくだろうと思う。

 

 

□■

 

先日、仕事で出版社の経営をしているひとと話すことがあった。専門書の小さな出版社だという。そのひとは純文学が好きだけれど、仕事で読まなければいけない本に追われて、純粋に自分の楽しみで本を読むことがずっと出来ていないというぼやきから、“なぜ本を読まないひとが増えているのか”という話題で盛り上がった。

 

私は本が好きなので自然と友人にも本好きが集まるが、仕事や付き合いの場で本を読まない、というひとと話すこともある。

よく耳にする、目にするのは小説も映画も、あらかじめあらすじだけでなく、ネタバレを読んでから観にいく、読むという話。

その理由は、“面白くなかったら時間やお金の無駄だから”、“自分が想定している揺さぶられ方ではない形で心を揺さぶられたくないから”だという。

私もそのひとも理解は出来るけど、共感はできない。なぜだろう、という話をずっとしていた。

けれど確かに、私は元々映画オタクなので近年の映画作品の流れにおいて納得するものもあった。

ここ数年、新作映画はシリーズものやファンダムものがヒットしている傾向があると思う。過去の名作映画のリマスターリバイバル上映も多い。

損をしたくない、無駄をしたくない、という消費者感情が反映されているのかなと思う。

 

もちろん私もそのひとも、これまでそれなりの作品、私の場合は本だけでなく映画や舞台などに触れてきていてその中には“ハズレだった”という作品は沢山ある。けれどなぜ、次に観るもの読むものが“ハズレ”の可能性があるのにまた時間とお金を使って観ようと読もうととするのか。そしてしないひととは何がちがうのか。一時間ほど話し合って(我ながら酔狂な一時間だと思うけどふたりとも大真面目だった)出たひとつの仮説がある。

 

■私とそのひとのような読むひとをA、読まないひと或いは無駄打ちしたくないひとをBとする。

AにもBにもそれぞれの心に、小さな穴があるとする。ぽっかりと空いた、誰もが平等に持っている穴。

 

Aの場合、読むこと観ることによってその空虚から生まれるものを得たくてコンテンツを摂取する。そこから生まれるものはその時によって様々で、もちろん望まないものが生まれることもある。けれど、生まれたものは善しも悪しも自分から生まれたもの。それを思考し、整理することを享楽として捉えている。

例えば私の場合、読んだ本がつまらなかったとする。もちろん、お金が無駄になってしまったなという気持ちも少なからずあるけれど、苦手なものに触れたことで改めて自分の“好き”を確認し、確信する。

なぜ苦手なのか、どこが好きなのかを紐解いていくことまでが、読むこと観ることに含まれている。

最近も、カバーと帯に惹かれてきっと好きだ!と思った本を読んだものの、非常に期待外れだったことがあった。それはとある文学賞の入賞作品で、巻末に審査員である著名な作家たちの講評が載っていた。

がっかりしながら講評を読んでいると、それがとても面白い。彼らの言葉を読みながら、なぜ私はこの作品が苦手だと思ったのか、どこが嫌いなのか、そして私はどんな作品が好きなのかを改めて整理して引き出しのあるべき場所にしまっていっているような感覚になり、本を閉じたときはなんともすっきりした読了感をもったほど。

純粋にストーリーに没入し、良し悪しを感じることだけではなくて、その読書時間に何を想い何を感じたかという経験に、読むこと観ることの価値を置いているのがA。

 

 

Bの場合、その空虚を埋めるためにコンテンツを摂取しているのではないか、というのが私たちの一時間で出た仮説だ。

その穴にぴったりはまると思ってお金と時間を使ったのに、微妙にずれていて気分が悪い。

砂糖だと思って舐めたら塩だったときの驚きは、ひとにストレスを与えるし、ジグソーパズルのピースを探してしていて、最初は楽しく取っ替え引っ替えしていても、それがいつまでも続き正解が見つからないとやはりストレスがたまっていく。

その空虚からなにかを生むのではなく、その空虚をなにかで埋める。それが目的だから、想定外の感触や形を避けようとするのではないかということ。

 

 

二人で出したこの仮説に膝を打ちながら話したけれど、そのひとは出版業界にいるので笑ってばかりはいられないとも言っていた。

私は読まないひと、損をしたくないひとの気持ちを否定はしないが本当にまったく共感ができないので、それぞれの世界で生きましょうねなんて気楽に言っていられるが、そのひとからすると読むひとと読まないひとの違いというのは直接自分の収益に関わってくるのだから、大変だ。

とはいえそのひとも二人で繰り広げた机上の空論の結果の仮説に満足気な顔で珈琲を淹れ直したりしていたから、読むひとってやっぱりちょっと、そういうところだよね、と笑ってしまう。読むひとというのは、そこで得た、生まれたなにかを自分の裡のひそやかな楽しみとして悦に浸る選民意識が少なからずあるのだ、多分。なんて思いながら冷めた珈琲を飲み下した時間だった。という話。