もりとみずうみ

さみしさのやさしさ、いとしさについて。

プライドという美徳

2月3日。

私のローレライの、インストアイベントに参加した。

今回はアコースティックのミニライブとトーク会で、新曲含め3曲のバラードをピアニストと共に演奏。

新曲は大切な人を亡くしてしまうバラード。

先日のライブでも聴いたけれど、この曲はしみじみライブ映えする曲だなぁと思う。バンドではシンフォニックなメタルロック調が多いけど、新曲は彼の過去のバンドを彷彿させるリリカルでメロディアスな曲調。ライブでは雪の舞う演出の中で歌ってくれて美しさと切なさに涙をこぼしたばかり。

 

今日のアコースティックライブでは、先日のライブを上回るくらい情感たっぷりに歌い上げ、すっかり引き込まれていた。ところが大サビ前に、なんと歌詞に詰まってしまった。

 

私はずっとクラシック音楽業界にいたので、ミスというものにとっても敏感な方だと思う。

ミスは気の緩みと教え込まれて歌詞を飛ばす、音程を外すなんてミスをした日にはひたすら叱られ、罵倒され、過呼吸になるくらい泣かされる。今となってはこれは行き過ぎた擦り込みで、ミスというものは努力とは無関係のところで起きてしまうこともあると理解している。

それでもそんな擦り込みの後遺症なのか、ミスをしたあとの振る舞いに過敏なのだ。

どんなにどんなに好きな人でも、ミスを愛嬌でごまかすような振る舞い、過剰にへりくだった振る舞いをされると一気に冷めてしまう。プライドはないの…となってしまう。

実際、大好きなコンテンツの楽しみにしていたライブでそれを目の当たりにして、しばらく引き摺ってそのコンテンツと距離を置くこともあったくらいだ。

我ながら難儀だなぁと思うけど、どうしてもそこだけは譲れない。

 

今日のライブ、一番の盛り上がりをみせる大サビで歌詞に詰まった彼に話を戻す。

彼は詰まった直後にさっと手を上げてピアノを止めて

『ごめんなさい、もう一回やらせて』と言い、6分近くある新曲をまた1から歌い始めた。

最高潮の盛り上がりのところでぱんっとリセットして、静かに、苦しげに始まる冒頭からまた丁寧に物語を歌い始める。彼の曲は物語性がとても強いので、観客は例えるなら映画のクライマックスで突然オープニングに戻されるようなもの。それなのに、すっと物語に引き込んでいく。

この人音楽に愛されてる………………と天を仰いでしまった。

 

もちろんミスをしないことが一番なのだけれど、ミスをしてしまったときの持ち直しの仕方にその人の強さと誇りが出ると思っている。

ミスに引きずられてしまう人、ミスを愛嬌でごまかす人が多い中、ミスからの仕切り直しがあまりにスマートで、引き込み、魅せる姿に彼の音楽家としての誇りを見たようでたまらなくなった。

自分のつくる世界に、徹底した矜持を持っている彼をますます好きになったということを書き留めておきたかっただけの日記。

 

いつものことながら、サイン会とチェキ会は緊張しすぎて記憶がない。いつまでも慣れない気がする。神様みたいに思っているから。

 

poor things

 

2月1日。

前日のライブの余韻抜けきらぬ身体のままバレエのレッスンを受け、映画館へ駆け込む。

観てきたのは『哀れなるものたち』。

─天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる─

公開前からその映像美や衣装、物語のテーマ等で話題だったけれど、まさに傑作だった。

妊娠、自殺、性行為、売春などの描写があるので誰にでも観て!!と気軽には言えないものの、あの子は、あの人はきっと好きだろう。どんな感想を抱くのだろう、なんて考えてしまう。

男性優位社会から成るイデオロギーや欲望の中を、知識と経験と自らの選択で駆け抜けていくベラ。女は女なのではない。人間なのだと心震える。

目眩くアートのような色彩の映像も、役者陣(最高のキャステング!)の演技も凄まじい。

従順で無知であることを女性性と賛美する社会の醜さ、各々の倫理観やエゴ。一人の人間としての権利と選択の自由を自らの手で切り開いていくベラのパワフルさ。ラストのユートピア的描写もシニカルで、鳥肌だった。

観れて良かった。

 

 

以下ネタバレ有りの感想なのでご注意。

 

 

 

 

 

私は、“彼女”を創り上げたひとたち(彼女にとって創世神であり親でありメンター)をやがて“彼女”が凌駕していく話がとても好きだ。

ベラは親が彼女のために用意したユートピアを飛び出し、自ら見て考えて選択したのち、またこのユートピアに戻ってきて、かつて彼女を創った親と同じ職になることを望み、彼女がされた手術と同じものを彼女の夫だった人に施す。自らの選択によって。

美しい庭で仲間たち(社会主義思想と出会わせた友人、彼女の出自と冒険をすべて知る現夫、彼女と同じ人造人間のフェリシティ)と談笑するシーン。

連鎖の呪いを示唆してるのだとしたら穏やかな美しさが、ぞくりとする。

原題のpoorはだれを、なにを指しているのか。

もう一回観に行きたいし、観るひとによって抱く感想や解釈が大きく変わる作品なので観た方は是非私とおしゃべりしてほしい。

 

昨年観た『TAR』もそうだったけれど、“もっていかれる”作品に出会うと、心臓に鳥肌が立つ。

おそろしさとおぞましさと美しさの境界線はどこなのだろう。

ローレライに逢いに行った日

2024.01.31

私のローレライ*の歌を聴きに、ライブハウスまで。

*のこと→https://jardindelis.hatenablog.com/entry/2023/09/18/180802

 

あんまりにもステージが近くて、どうにかなってしまいそうだった。苦しかった。前から二列目は以前もあったし、インストのチェキやミーグリの握手のほうが至近距離ではあるけども、やっぱり私は歌っているときの彼が一番好きなので。ボーカリストだもの、そのときが一番蠱惑的で、魔性性が高まる。それをセンターの目と鼻の先の距離で全身に浴びてきた。

もうすっかり思考が混乱して中盤まで直視できなかったほど。汗も、呼吸音も、マイクオフの声も聴こえる、見える。

音楽に酔いしれ、音楽の物語へ私達を誘う彼の姿があんまりにも…なにか神様がかった美しさで、苦しくて溺れてしまいそうだった。

 

去年の夏から始まったストーリー仕立てのライブ構成、一回目は戸惑ったものの今回はもう慣らされているので純粋に楽しめたし、大好きな曲も聴けて、ライブでは初めて聴く新曲は雪の舞う演出が幻想的で本当によかった。

 

ライブ後のミートアンドグリートはこれまでと違ってお客のスマホで自撮りのかたちでツーショット撮影とのことで、ライブに来る前まですごく緊張していたのだけれど、至近距離でのライブパフォーマンスでかなり酩酊状態だったので、案じていたほど緊張はしなかった。

やっぱりアーティストしている彼の姿が一番私の胸を揺さぶってくるのだな…なんてふらふらしながら一緒にきてくれていた妹、娘と合流する。

 

今年最初の、世界で一番大好きなひとのライブ。満ち足りた夜だった。quelle belle nuit…!

 

 

 

心の庭の話。

お誕生日のことをもう少し。

お誕生日前後に友人たちからもサプライズプレゼントが届いた。

 

みんなラッピングからそのひとの感性や美意識が感じられる美しいもので、物語の主人公にでもなった気持ちでリボンを解く。

SNSで知り合った友人たちが多いのだけれど、私にとってSNSは好きな世界やあこがれの世界を語り合う場なのでなんというか…日常生活で知り合った友人よりも心の奥深くを知ってもらっている気がする。

私を構成する宝物の欠片たちを知っている友人たちからのプレゼントは、だからとっても心ときめくセレクトばかり。

好きなものには二種類あって、みんなに見てみて!素敵でしょ!と言いたいものと、ほんのすこしの、限られたひと、同じ世界を同じ心持ちで愛するひとや自分の心の庭を大切に育てていると感じる精神性“腹心の友”だけにひっそりと耳打ちして教えたいもの。

その後者を分かち合う“腹心の友”から、私の愛する世界を知ってるからこそのセレクトの贈り物をもらうと本当に嬉しい。

敬意と親愛を感じて、大切にされている気がして、心の底から幸せになってしまう。

贈られたハンカチを鞄にしのばせるときや、贈られた紅茶をいれて書き物をするとき。贈られた本のページをめくるとき。

“これを贈りたい”と思ってくれた友人に、これからもそう思ってもらえる私でいたいなと思う。

贈り物が欲しいから、ではなくて。素敵なものをそっとお裾分けしたくなる、“腹心の友”にふさわしい心を持っていたいという気持ち。

 

そういえばこの冬は、なにかと本を贈り合うことが多かった。

私が贈る側のとき、選ぶのが楽しくて、この物語を好きになってくれたら嬉しくて、心のやわらかなところを見せるようでほんの少しだけ恥ずかしい。

私が贈られる側のとき、相手の心の欠片を手渡されたような気持ちになって胸が高鳴る。

Xで昨年末に相互さんのイメージの小説を挙げる、ということをしたとき、「好きな本です!」や「買いました!」と言ってもらえてとても楽しかった。

 

本を贈り合える友人は、ずっと友人な気がしている。

本というのはもちろん好みもあるし、置いておくスペースも人それぞれ違う。そこに「きっと好きだから」という思いだけで贈ってしまう厚かましさを喜んで受け取ってもらえるだろうという安心感と、大切な世界を共有できる信頼がないと成立しないと思うから。

好きを再確認したり、新しい好きに出会ったりできるのは嬉しい。

 

ここにも、“心の庭”については何度か書いているけれど、自分の心に大切な庭を持っている人が好き。

自分の目で見て手で触れて心で感じたものたちを耕して、植えて、間引いて、花を咲かせているひとたち。

そのひとたちは愛するものに敬意を払って向き合っていて、そして自分以外のひとの庭も大切にしてくれる。

決して荒らしたり、咲いた花を盗み取って自分の庭に植えたりはしない。そういうひとたちに、良かったら、と種をお裾分けしてもらったり、花束を贈ってもらったりすることはなんて幸せなんだろうと思う。

本を贈り合うことも、まさにそれだ。

 

最近は、誕生日に友人から贈られた素敵な詩集を、寝る前に一編ずつ読んでいる。

同じ夢を見る鍵を、手に入れたみたいな気分で。

 

読書記録

川野芽生『月面文字翻刻一例』

 

川野さんの言葉の美しさにはいつも酔わせられる。

ひたひたと滴る透明な水。呑み下すとゆっくり身体に廻り、それはやがて手足を痺れさせ、呼吸を苦しくさせるのに。そのさなかに姿を現す幻影があまりにも蠱惑的で、また、もっと、と求めてしまう。ゆうるりと、侵されていく。そんな心地になる言葉と世界と物語。

 

創造、崩壊、終焉。月や角、翼、眠り、夢…窒息しそうになるくらいうつくしいモチーフたち。

薔薇と月の庭の幻影『遠い庭より』、夢見る力を失った兵士の『シメール、帰還兵』、天使が墜ちてくる街の『蟲科病院』が特に好きだった。

どこか硬質で、澁澤龍彦がいうところの“幾何学的精神”のある幻想文学

川野さんの著作はまだ何冊か積んでいるので、ゆっくりと楽しみたい。

若手の作家さんでは川野さんと雛倉さりえさんは常に追っている。読むたびに呑み込まれ、打ちのめされて、そして充足のため息が漏れてしまう作家さんだ。

 

服部まゆみ『この闇と光』

 

何度目かの再読。服部まゆみさんは『シメール』をもう諳んじる事ができるくらい繰り返し読んでいるけれどこの作品も大好き。

残酷なほど鮮やかな世界の反転に毎回息を呑む。

タイトルの闇、光が指すのは現実なのか虚構なのか。フェティッシュ的セレクトの絵画、文学、音楽で飾られたユートピアの描写が没入感を高めてくれる。

刹那のひとときである少年少女に永遠を求めてしまう愚かさ、哀しさ、残酷さ。そしてその背徳感。

甘やかな疼きを確かに感じる私もきっと“ムーンレイカー”(ばか者)かもしれない。

 

 

少しばかり耽美に傾倒した1月の読書記録。

憧れの魔女

1月26日、今年初の映画館は『カラフルな魔女』

 

角野栄子さんが好きと言いつつ、きちんと読んだのは魔女の宅急便シリーズとエッセイだけと思っていた。

けれど「え!小さい頃に読んでたあの本、角野さんの作品だったんだ!」ということが多々ある。彼女の著作は実に200作以上。そんなふうに、子供たちの読書時間と心の庭にそっと寄り添っているその姿がお話の魔女めいていてとっても素敵。

この映画はそんな角野さんを4年に渡って密着したドキュメンタリー映画

 

何年か前にNHKで彼女のファッションに密着した番組を観た。その時も思ったけれど、とにかくよく笑う。朗らかでチャーミングな笑顔、言葉は丁寧だけどユーモアに満ちて、話し方にはやわらかな質感の上品さ…憧れてしまう。

角野さんが小説を書き始めたのは、なんと昨日までの私の年齢と知って驚いた。子育てをしながら始めた作家業、何年も何年も書き続けて、今も書き続けている。

朝から17時まで執筆する姿にも背筋が伸びてしまう。

角野さんの語る言葉が本当に素敵で、鑑賞しながら頭の中にメモした。

 

・どんなに構成が良くても、私が書いていて気持ち良くなければボツにしちゃう。

・誰にでも魔法はある。私にとって書くことがそれだった。魔法は一つでいいの。中には見つけられない人もいるけれど、もし見つけたら絶対に手放さないで。

・魔女はあちら側(目に見えない世界)とこちら側(目に見える現実)の境目にいる存在。そんな魔女を書けば、私も行ったり来たりできるでしょう?

 

特に最後の言葉は厚かましいけれどとっても共感した。

私もずっと、憧憬に手を伸ばすように書いている。

きらにらとした煌めきと活力をもらうような映画だった。心は軽やかに、けれど信念は強く。物語るひとの魔法の秘密を覗かせてもらう。

 

角野栄子さんの他にも、例えば田村セツコさんやターシャ・チューダーやベニシアさんなど、私には憧れの“おばあちゃんが”何人かいる。

みな共通するのは、夢見ることを大事にしつつ、そんな世界と暮らしを守るためのある種の根性があると思っている。ロマンティック根性。夢みるだけじゃいられない、だけど夢みていたい、なら、やるしかない、の気概がとても好きだ。

自分のための根性ってそれはもう、一つの立派な矜持だと思う。

自分が歩いた道のあとに、カラフルな欠片や楽しげな音符が落ちているような、そんな生き方をしたいと考えながら、冷たい北風にキッと顔を上げて帰路に着いた。

 

火曜日の冬の夜のこと

1月26日

この日は私の誕生日。

自分の努力や望みなどとは関係なく、持って生まれたものの中で一番お気に入りなのが誕生日。火曜日の冬、三日月と上弦の間の月の夜に生まれた。

冬が大好きなのは冬生まれだからということもあるかもしれない。

 

そんな誕生日、どんな風に過ごしたかというとまず朝一番にドラッグストアへと走った。魔法使いの約束とラブライナーのコラボを買いに。このルチルくんが涙が出るくらい好きな絵柄で、コラボが発表された日は一日中そわそわしていたほど。

オンラインのBOXは買えなかったけど、ひとまず全種類店舗で買えて、特典カードもルチルくんが沢山集まったのでとっても嬉しい。誕生日が発送日ということに勝手に運命を感じていたので。瞼は二つしかないのに、今我が家には沢山のアイライナーがある。普段は選ばないような色も、使ってみると意外と似合っていたりして、魔法めいていてますます嬉しくなる。

 

午後は観たかった映画を観に。それについては別の記事で書こうと思う。

夕方、稽古に出かけた娘がなかなか帰ってこないと思ったら、サプライズでプレゼントを買ってきてくれた!

ルチルくんをイメージして選んでくれたという柔らかいクリーム色の薔薇。

いつも一緒に通りがかる度に私が「かわいいなあ〜」と言っていたミッフィーのぬいぐるみ。

いじらしくて、ミッフィーごと娘を抱きしめてしまう。

自分の誕生日には私に手紙を、そして毎年私の誕生日にはサプライズを用意してくれる娘。最近は反抗期気味でぶつかり合うことも多いのだけれど、こういう心のやわらかなところや、やさしさにもっと目をむけていってあげたいなと思う。

 

少し前に誕生日プレゼントのリクエストを聞かれて、実はもうプレゼントをもらっていたというのに。

娘の絵が好きなので、月か、夜か、海の絵を描いてほしいとお願いすると、こんなに素敵な絵を描いてくれた。

ちなみに、左側の抽象画も以前娘が描いてくれたもの。

まほやくの厄災と、花かけらの波をイメージして描いてくれた。嬉しくてXでも自慢したけれど、ここでももう一回自慢しちゃう。

 

夜遅い時間、二人でケーキを食べる。

そういえば子供が生まれる前、ぼんやりと「もし自分に娘がいたら、紅茶とケーキを入れて真夜中のお茶会ができるような関係になりたい」なんて考えていたことがある。子供どころか、結婚すらしていないし、まだまだ自分が子供だったときの夢想。

それがめぐりめぐった日々の先で叶っているとあの頃の私に伝えたら、びっくりするかもしれない。

 

SNSでも沢山のお祝いの言葉をいただく。

いつもありがとう。お陰様で楽しい1日を過ごしたよ。